『映画渡世・地の巻―マキノ雅弘自伝 』

<『映画渡世・地の巻―マキノ雅弘自伝 』>
図書館の本を手当たり次第に、借りている大使であるが・・・・
なんか慌しいので、この際、積読状態の蔵書を再読しようと思い立ったのです。

・・・この本を入手した経緯を覚えていないのだが、たぶん古書店か大学学園祭のバザーかなんかだったのでしょう。

【映画渡世・地の巻―マキノ雅弘自伝 】


マキノ雅弘著、平凡社、1977年刊

<「BOOK」データベースより>
東宝の『次郎長三国志』シリーズから東映の『日本侠客伝』シリーズへと、“任侠映画”ブームをつくったマキノ雅弘(正博)。“日本映画の父”マキノ省三の長男として生れ、『浪人街第一話・美しき獲物』『崇禅寺馬場』『蹴合鶏』、そして『首の座』と、いわゆるベストテン映画の監督として華々しいスタートを飾りながら、その後は職人監督に徹してひたすら映画という渡世の底辺に生きて来たのは、何故か―。怒濤の青春遊侠篇を描く前篇「天の巻」に次いで、本書「地の巻」では、戦中・戦後の混乱期から、新しい映像革命の可能性に挑みつつある現在までの風雲残侠篇を描く。

<大使寸評>
この本を入手した経緯を覚えていないのだが、たぶん古書店か大学学園祭のバザーかなんかだったのでしょう。
とにかく、やや娯楽路線ではあるが、マキノさん案内で昔の映画を見てみましょう。

amazon映画渡世・地の巻―マキノ雅弘自伝



ロケ地での思い出を見てみましょう。
p431~435
<売られたわしが悪いのや>
 そんなわけで、医者は駄目だと云ったのだが、山本麟一やらが四時間くらいかかって私の脚のギブスを切った。津川雅彦は、私が痛がると思って、逃げて行ってしまった。私は夜通し歩く稽古をした。

 翌日は一日休むことにし、B班に港のあたりや船のシーンをちょっと撮らせた。
 片足骨折というのに私は無茶をやって、「大丈夫や」と走ってみせたりしたのだが、しかし撮影所へ帰ってセットに入って仕上がる時には、もうほとんど両足が動かなくなってしまった。

 高倉健がアメリカへ行くというので、彼の最後の出場を半徹夜で上げ、それから立回りを撮れば、高倉健の出ないシーンをいくつか残すだけで、終わりとなった。
 その前夜、皆の前で私は無理して黒田節を踊ってみせたのだが、もういっぺんやってくれと皆にワァワァ云われて、仕方なく、気力を振りしぼって、槍を持ってサッと廻したら、ポキンという変な音がした。もう片方の骨が折れてしまったのだ。そしたら、純子が、
「先生、二度目の踊りはまずかった」
 と云いよった。藤純子はロケーションに行ってなかったから、私がロケ地ですでに片脚を骨折したなんて事情は知らなかった。それで、ふっと出た言葉だったのだろうが、私はさすがに頭に来て純子に、
「かんにんしてくれ。お前の楽しみにわしは踊ってんじゃないんだ、この脚で。馬鹿なこと云うな」
 と吐鳴ってやった。

 高倉健の出ない撮り残しのシーンは、津川雅彦につきっきりで面倒みてもらってやっと撮り上げたが、私が両脚とも動かなくなったら、スタッフは全員逃げてしまって、編集、ダビングの時には、もう助監督も誰れもいなかった。もう、それからは、何もやるまいと心に決めて、脚が治るまで寝ていることにした。

 しかし、寝ていても、1時間ぐらいこむら返りで痛み、二十分間ぐらいは治るのだが、また一時間もかっと痛む。脂汗が出る。脚を上げたり下げたり、色々なことをやってみるのだが、どうにもならない。

 それで、早川雅浩に、誰れかその方面のいい医者は知らんかと電話したら、福田三郎先生を連れて来てくれた。そして、先生が、何か知らないが、注射を打って下さったら、こむら返りが止まった。これにはびっくりしながら、感激した。福田先生に毎日通ってもらって、ついでにウチの孫の斜頸まで治してもらった。

 そんな私の状態を知りながら、岡田茂製作本部長が私を日活へ売ったのである。「日活からたのまれたから・・・」と云うのだが、いずれにせよ、私が身動き出来ないことを承知の上でやったことらしい。福田先生に相談してみたら、7月11日からクランクイン出来るというので、私は高橋英樹主演のシャシンを撮りに日活へ行ったのであった。

 その映画の撮影には、私の脚の怪我を知っている内輪の連中が皆来てくれて、私のことをかばってくれた。河津清三郎、水島道太郎、長門裕之、南田洋子、津川雅彦・・・皆が私を取り巻いて、「おやじさんを死なせられるかいッ」と怒った。
「おやじさん、誰れを怒ったらええねン」と皆が云うので、私は、
「いや、誰れでもない。わしが悪いんだ。契約もしていないのに、なめられて売られてしもたんや。ハイハイ云うて、行こういう気になったんが悪いのや」

 この映画は入山太郎の世話で、撮ることになった。私は『纏仁義』という題名を付けていたのだが、当時の東映仁侠映画路線の二本のヒット・シリーズ『日本侠客伝』と『昭和残侠伝』をミックスした『日本残侠伝』という題になってしまった。岡田茂氏が電話をかけて来て、
「その題名で撮るのはやめてくれ」
 と云うので、私ははっきりと云ってやった。
「何を云ってんのや。日活にたのまれてわしを女郎みたいに売っといて、日活がつくった題名を、何んでわしにやめろって云うんだ。わしの付けた題名やない。そんなこと、わしに文句つけんで、お前とこで日活に云え」

 で、日活に抗議したところ、堀久作社長のジュニアである堀雅彦製作本部長が、きっぱりと、
「題名を変えることはおことわり致します」
 それで終わりになった。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント