『「王権誕生」日本の歴史第2巻』2

<『「王権誕生」日本の歴史第2巻』2>
この本は父親の蔵書を継ぐものであるが・・・
水稲は、列島をどのように変えたのか。なぜ、戦争が始まったのかと、とにかく読みどころが多いのである。


【「王権誕生」日本の歴史第2巻】


寺沢薫著、講談社、2000年刊

<「BOOK」データベース>より
水稲は、列島をどのように変えたのか。なぜ、戦争が始まったのか。群雄割拠した国々は、いかに統合され、王権成立へと至ったのか。そのとき卑弥呼はどこにいたのか。最新の考古学が古代の謎を解く。

<大使寸評>
この本は父親の蔵書を継ぐものであるが・・・
水稲は、列島をどのように変えたのか。なぜ、戦争が始まったのかと、とにかく読みどころが多いのである。

Amazon「王権誕生」日本の歴史第2巻


環濠集落


「第一章 稲作伝来」で水稲農耕の伝来(続き)を、見てみましょう。
p50~51
<弥生文化の東進・縄文人との遭遇>
 朝鮮半島南部から渡来した新しい文化要素が真っ先に定着した姿を、板付Ⅰ式(前四世紀後半)という土器様式に代表させるのであれば、その典型的なものは玄界灘沿岸地域を核とした、北部九州の限られた地域のみに分布する。そこは、私が「穀物センター」と呼んで、イネ、雑穀、マメ類、果実類などの初期の多彩な栽培植物が集中する、列島での起源地であり、弥生文化が花開いた地である。だから、最古の水田も、金属器も、環濠集落も、この地域のみ存在することには、それなりの背景があるということだ。

 続く板付II式期(前三世紀頃)になると、遠賀川系土器とともに、水田稲作と環濠集落は東へと拡散していく。そこには、「穀物センター」からの直接のフロンティアもいただろうし、この時期になってからの、大陸からの新たな渡来人もあったろう。響灘沿岸の下関市綾羅木郷遺跡、筑後平野の横熊山遺跡や三国の鼻遺跡、佐賀平野の町南遺跡や吉野ヶ里遺跡などでは、集落内に渡来人たちの生活エリアが確保されていたらしいことがわかっている。

 一方、縄文晩期後半以来の稲作民が社会的に成熟して環濠集落を作るようになったケースや、各地の二次的な環濠集落からさらなる分裂もあったはずである。瀬戸内以東の環濠集落の多くは、こうした社会的な成熟によって成立したものだろう。この時期、遠賀川系土器の文化は伊勢湾地方にまで及んでいるが、ここで足踏みをする。これより東の北陸、東海、関東地方で遠賀川系土器が出土するのは極めてまれで、かつ微量だ。環濠集落の出現にいたっては、中期中頃、大多数は後葉になってからの出現だ。弥生時代、東北地方にはついぞ環濠集落が作られることはなかったのである。

 こうした初期の渡来人の足跡をみると、渡来人とすでにいた縄文人との関係も何となくわかってくる。両者の関係はいたって平和共存的だったと言ってよいだろう。たしかに、初めて縄文人が渡来人のボートピープルに遭遇した時、両者冷静でいられたかは大いに疑問だけれど、渡来人と縄文人の激しい戦闘を物語る資料はまったくないのだ。

 西日本の縄文晩期後半の突帯文土器を出土する遺跡(縄文系)と、朝鮮系無文土器や初期の遠賀川系土器を出土する遺跡(弥生系)をみると、まったく棲み分けしている場合、圧倒的に多量の縄文系に少量の弥生系がともなう遺跡、圧倒的に多量の弥生系に少量の縄文系がともなう遺跡、が地域のなかで共存していることが多い。渡来人や渡来系の弥生人は、実に巧妙に西日本の縄文人の社会へ入り込んでいったのだ。

 縄文晩期末の突帯文土器の壷棺墓地に弥生土器の壷棺を埋葬した例もみられる(大阪府茨木市耳原遺跡や奈良県桜井市大福遺跡)。こうして、渡来系の弥生人は次第に縄文人のムラにも入り込み、縄文人はしだいに弥生人へと同化していったのである。


『「王権誕生」日本の歴史第2巻』1

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント