『新・韓国風土記 第一巻』4

<『新・韓国風土記 第一巻』4>
本棚に積読になっていた本であるが、8年ぶりに読んでみようと思いたったのです。
・・・なにしろ、神戸市の図書館が閉鎖中で、読む本に事欠いてきたもんで。

この本は、全5巻シリーズの第一巻とのこと。


【新・韓国風土記(第一巻)】
韓国(画像は第4巻)
安宇植編、読売新聞社、1989年刊

<「BOOK」データベースより>
朝鮮王朝の都として発達したソウル、海の守りの要衡釜山、収奪に耐え観光立国を実現した済州島。檀君神話の昔から「漢江の奇跡」の現代まで、ソウル、釜山、済州島が歩んだ独自の道を俯瞰する。

<大使寸評>
父の本棚で見つけたこの本もアマゾンで出ないので、古書ということだろう。
80年代のソウル、釜山を韓国人が綴った内容となっています。

webcatplus新・韓国風土記(第一巻)



「第3部第6章 島に繋がる海の道」で、済州島人を見てみましょう。
p280~282
<日本のなかの済州島人>
 島外に出かけて暮らしている済州島人はどれくらいの数になるのだろうか。確かなことはいえないが、済州島出身者が韓国内で最も多く住んでいる地域は釜山、わけても影島区で、その数は八万人ほどといわれている。そのほかにソウルにおよそ五万人、全羅南・北道には約一万人が住んでいるといわれているが、それ以外の地域では全体でも一万人足らずだという。

 だが、済州島出身者が最も多く住みついているのは、やはり日本であろう。その数は正確ではないが、一般に十五万人から二十万人といわれている。彼らがいつ、そしてなぜ日本に渡っていったのかに関しては、在日韓国人全体を対象とした調査資料をもとに類推するよりほかにない。

 彼らが日本に渡っていった理由の第一は、植民地時代の初期に済州島の貧しい暮らしから逃れるためであった。第二は太平洋戦争と前後した時期に報国隊などの名称で、日本の炭鉱その他に強制連行されていったためであった。第三は民族解放後に盛んであった密航による脱出である。

 1930年代に日本の関係機関が調査した資料では、在日韓国人が、日本に渡っていった理由の第一に生活難をあげており、留学のために日本に渡った例はきわめて少ない。当時済州島では農業も十分に発展していなかったうえ、1920年代には済州島と大阪の間に千トンクラスの汽船が三隻も就航し、人口の移動がきわめて容易であった。

 その結果、1938年までに日本に住みついた済州島人は四万六千人、また解放前後の時期には十万人を超えた。さらにまた解放後、四・三事件や朝鮮動乱など、国内の政治的混乱を避けるため日本に密航した人々も少なくなかった。むろんこれとは逆に、解放後かなりの島民が故郷へ戻ってきた。1953年に日本に残っていた済州島出身者の数が六万四千人ほどであったことからみて、三万人余りが植民地から解放された故郷に帰ってきたものと思われる。

 1979年に『済州新聞』が、済州島を故郷としている在日同胞を対象にアンケート調査を実施したことがある。それによれば、彼らの家族が日本に渡っていった例は46%であった。また、彼らの職業の分類では、事務職員が25%、居留民団の職員が14%、商店を営んでいる同胞が12%、次いで家内工業や遊興飲食店の経営者、そして肉体労働者の順となっていた。

 彼らの1ヵ月の稼ぎは30%近くが当時の韓国の貨幣で19万ウォン以下、逆に百万ウォンを越える人々も11%あり、貧富の開きが大きいことを教えていた。在日同胞がたびたび故郷を訪れるようになったのは、1960年代も半ば以降のことで、それまでの往来は、きわめてまれなことであった。

 済州島知事に就任した元海軍提督金栄寛が、当時たったひとつしかなかった在日済州島人の団体の「在日済州開発協会」に、母国を訪問するように働きかけたのをきっかけに、二十年近く途絶えていた郷里の人たちとの再会が実現されたのである。当初の再会劇はきわめて感動的で、帰省声明を発表する例まであって在日同胞に大きな喜びをもたらした。


『新・韓国風土記 第一巻』3:釜山の気質p168~170
『新・韓国風土記 第一巻』2:両班の体面p85~86
ソウル、釜山の歴史 :植民地下での変化p38~40、釜山の変化p153~155

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