『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』1
<『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』1>
図書館で『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』という本を、手にしたのです。
内容を覗いてみると、翻訳がテーマとなっているようで・・・
これが太子のミニブームにいたく響くわけでおます♪
翻訳家バーンバウムのケースを、見てみましょう。
以前に読んだ『中国行きのスロウ・ボート』を付けておきます。
図書館で『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』という本を、手にしたのです。
内容を覗いてみると、翻訳がテーマとなっているようで・・・
これが太子のミニブームにいたく響くわけでおます♪
【Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち】 ![]() 辛島デイヴィッド著、みすず書房、2018年刊 <「BOOK」データベース>より 村上春樹と英米出版界のスペシャリストたちの冒険。A・バーンバウム、E・ルーク、L・アッシャー、J・ルービン、G・フィスケットジョン、チップ・キッド…、そして村上春樹。Haruki Murakamiの世界への飛翔までの道のりを、30余名へのインタビューをもとにたどる、異色の文芸ドキュメント。 <読む前の大使寸評> 内容を覗いてみると、翻訳がテーマとなっているようで・・・ これが太子のミニブームにいたく響くわけでおます♪ rakutenHaruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち |
翻訳家バーンバウムのケースを、見てみましょう。
p23~27 <3 生活のために「翻訳家」になる> ■京都→東京 村上作品に出会う Misfitsの中に自分の居場所を見つけたバーンバウムだったあが、京都での生活も徐々に窮屈に感じはじめた。茶道に対する情熱も冷めかけており、京都を離れることを決断した。 (中略) 『Chanoyu Quarterly』の翻訳の仕事を離れ、再び東京に移り住んだバーンバウムは、ヴィデオ・アーティストとして活動しながら翻訳の仕事を続けた。『Chanoyu Quarterly』での仕事をきっかけに、バーンバウムは講談社インターナショナルからアートやインテリア関連の本の翻訳の仕事を受けるようになっていた。 この時も「翻訳者とか翻訳家になるつもりはなかった」という。 「そもそも何かキャリアを持つという発想がなかった。様々な翻訳の仕事を手掛ける中で、どうせ翻訳をするなら文学の翻訳の方がやりがいがあるのではと思い始めただけのこと」 訳すのに適した文学作品を探し始めていた頃に、友人の勧めでバーンバウムが初めて手に取ったのが、村上春樹の短編集『中国行きのスロウ・ボート』だった。1980年4月から1982年12月にかけて『海』『新潮』等の文芸誌や『BRUTUS』『宝島』等のカルチャー誌に掲載された七編がまとめられ、著者初の短編集として1983年の春に刊行されたばかりの新作で、安西水丸による洋梨のイラストを用いた表紙も印象的だった。 バーンバウムは、「別に運命的なものを感じるとかはなかったけど、それまで読んできた日本文学とは全く違うもの」のように感じたという。特に惹かれたのは、「日本文学に圧倒的に足りないと感じていたユーモア」だった。社会にうまく馴染めないMisfitの主人公にも共感できた。 腕を試したくなったバーンバウムは、机がわりの出窓に置かれたタイプライターに向かい、そのなかの一篇を訳しはじめた。 <4 すべては原稿の持込みから> 1984年4月のある晴れた寒い朝、バーンバウムは護国寺駅で地下鉄を降り、講談社本社の前を通り、嫌な風を避けるように護国寺の雑居ビルに駆け込んだ。既に何度も訪れていたビルのエレベーターに乗り込み、講談社インターナショナル(以下、KI)の事務所がある階のボタンを押した。脇に抱えた鞄には「ニューヨーク炭鉱の悲劇」のサンプル訳が入っていた。 当時バーンバウムは、KIからノンフィクションの翻訳の仕事を受けていた。打ち合わせもそのためだった。 1963年に講談社の子会社として設立されたKIは、主に日本文化を英語で紹介する本を刊行する出版社だった。美術、工芸、武道、食、ビジネス等の分野の本が多く、日本語で書かれた本の英訳に加え、ドナルド・キーン、エドワード・サイデンステッカーなどの外国人研究者による自伝や解説本も刊行していた。 (中略) KIは、これらのノンフィクションの他に、日本文学の英訳も刊行していた。当時、日本文学の英訳を刊行する出版社が限られているなか、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫の「ビッグ・スリー」の作品を出していたクノップフ社や、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治等の作品を出していたチャールズ・イー・タトル出版と並び、KIは(日本文学の英訳の世界で)それなりの存在感を示していた。 (中略) 1976年と1979年にそれぞれ講談社が主催する群像新人文学賞を受賞し、小説家デビューしていた村上龍と村上春樹は「ダブル村上」と称されることもあり、1981年には対談集『ウォーク・ドント・ラン』(講談社)も出していた。バーンバウムは、「もう一人の村上」の英訳にも関心を示してもらえるのでは、と期待を抱いていた。 ノンフィクション本に関する打合せが終わると、バーンバウムは鞄から「ニューヨーク炭鉱の悲劇」のサンプル訳を取り出した。短編集『中国行きのスロウ・ボート』に収録されていた七編のなかからこの短編を選んだ理由は、「「中国行きのスロウ・ボート」や「午後の最後の芝生」より短くて、訳してみた作品の中で翻訳として最も納得がいくものだったから」。 原稿を編集者に渡したバーンバウムは、二年前に発表されたばかりの村上の初長篇『羊をめぐる冒険』も翻訳したいと申し出た。 |
以前に読んだ『中国行きのスロウ・ボート』を付けておきます。
【中国行きのスロウ・ボート】 ![]() 村上春樹著、中央公論新社、1997年刊 <「BOOK」データベース>より 青春の追憶と内なる魂の旅を描く表題作ほか6篇。著者初の短篇集。 【目次】 中国行きのスロウ・ボート/貧乏な叔母さんの話/ニューヨーク炭鉱の悲劇/カンガルー通信/午後の最後の芝生/土の中の彼女の小さな犬/シドニーのグリーン・ストリート <読む前の大使寸評> 追って記入 rakuten中国行きのスロウ・ボート |
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