『民家をつくった大工たち』2

<『民家をつくった大工たち』2>
図書館で『民家をつくった大工たち』という本を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくってみると、丹後半島宮津あたりに限定して述べられているが・・・
そのあたりには土地勘もはたらくし、気にならないのでおます。


【民家をつくった大工たち】


吉野正治著、学芸出版社、1986年刊

<「BOOK」データベース>より
古書につきデータなし


<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくってみると、丹後半島宮津あたりに限定して述べられているが・・・
そのあたりには土地勘もはたらくし、気にならないのでおます。

amazon民家をつくった大工たち


間取りの次に外姿を、見てみましょう。
p39~40
<外姿の決定>
これも間取りと同様「〇〇のはよい」ということで、それがモデルとなり、それに棟梁が「あんたのところでは、これぐらいにはせんと」ということで、入母屋をすすめたり、壁の色などを決めた。だが、昭和の初め頃には入母屋造りなどというものは村うちには一、二しかなかった。

 外壁の色は戦前までは中塗り仕上げで、白はお寺、神社のようだとして塗らなかった。よい家は黒壁でこれが最高であった。しかしこれ以上ないという黒壁を塗ると、その家の将来の発展がないというようなことにつながるので、お床さん(床の間)以外にはあまりすすめなかった。

 屋根瓦は今は三州、石州が普通だが、戦前は地瓦でまかなった。その中では加悦谷のあけし瓦が知られていた。震災直後からセメント瓦が作られた。青瓦はやめとけと言われている。それは織田信長が安土城に使用し、その城が焼失したからだと聞いている。

 丹後では近江のように柱に色を塗るということあしない。ベンガラに墨汁を少し入れて黒味を帯びさせ、後に油ぶきをするというのは、霧の多いところ、由良川、綾部などで行われているようだが。

 京町屋に多く見られるむしこ窓は、震災前機織屋等にはあったが、震災で女工さんが逃げられなくなって死んだということがあり、作らなくなった。 


建築の上流として製材以前の木挽きを、見てみましょう。
p41~43
<4 木挽>
<製材以前>
 今日では「木作り」という言葉を聞くことがなくなってしまった。「木作り」とは何のことですかと建築職人までが尋ねる時代になってしまった。
 だが、つい半世紀前までは、木作りは住居づくりの最も重要な部分に完全にいちしていた。

 木作りとは、山に入り、立木を見て、何に使えるか、何に使ったらよいかを決めながら、伐採し、枝を払い、所定の長さに切り、それから、丸もん・梁桁材、柱材、板材、小角材をちょうなではつったり、おがで挽き出し、さらに墨を打って正しい寸法を出し、所定のきちんとした部材を作りあげるという一連の仕事をさしている。

 製材所が開設される以前においては、また木材市場が発達していない地方では、住居づくりにおいて必ず通過せねばならない第一過程であった。

 木作りは、木挽と大工の連携プレーで行われた。立木の見立てから材の挽出しまでは木挽の仕事で、墨出し・所定の寸法の調整は大工仕事であったが、木挽の初めの段階ですでに所用部材の一覧リストが木挽棟梁の頭の中に入っていなければならず、大工棟梁とお密接な連携が必要なのである。木挽が確かな目をもって適材を挽き出してくれなければ大工は泣かされてしまう。
(中略)

 木挽は、後述するように、草屋根の骨組(合掌)を作ることもした。屋根は、住居の最も象徴的な部分でもある。木挽は、自然の中から木の香もかぐわしい大いなる造形物を生みだしてくれる匠なる者の頭でもあった訳である。多分、木挽は、住居づくりの歴史の中で最も早く現れた仕事人であったろう。

 なお後述するように木挽は製材所の開設、木材流通の商業化にともなって、普請のための木挽から製材所や材木屋に雇われる木挽になっていき、しまいに製材工と山林労働者に分解されていくのであるが、ここでは住居普請と関わる木挽を中心に、その仕事を見ることにしよう。
(後略)


『民家をつくった大工たち』1

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