『民家をつくった大工たち』1

<『民家をつくった大工たち』1>
図書館で『民家をつくった大工たち』という本を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくってみると、丹後半島宮津あたりに限定して述べられているが・・・
そのあたりには土地勘もはたらくし、気にならないのでおます。


【民家をつくった大工たち】


吉野正治著、学芸出版社、1986年刊

<「BOOK」データベース>より
古書につきデータなし


<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくってみると、丹後半島宮津あたりに限定して述べられているが・・・
そのあたりには土地勘もはたらくし、気にならないのでおます。

amazon民家をつくった大工たち



やや専門的になるが、民家設計の基本あたりを、見てみましょう。
p30~36
<3 間取りと外姿>
 丹後半島の間取りは、古くは広間型、大正・昭和に入っては、四間取り…いわゆる田の字型であった。とくに村方では、四間取りは動かしえないものとして定着していた。

 そのようなことで、間取りの決定といっても、その大枠は決まっており、いまさらどうこうする余地はなかったが、それでも、何やかやと心わずらわすことがあった。その最大の問題は、母屋の規模をどうするか、正勝手にするか、逆勝手にするか、外姿をどうするか、ということであった。とくに、母屋の規模をどうするかは、その家の家格の宣言のようなことであったから、心を痛めることであったし、家長の最大の決断が求められることであった。

 ところで、母屋の規模をどうするかとは、端的には、「三六」とするか、「四八」にするかということであった。

<三六、四八>
 通常、住居の規模を言い表すには、建坪、延面積などが用いられているが、それと同時に古くから、「梁間〇間、桁行〇間」という呼び方があった。社寺建築の場合はずっとこうした呼び方をするが、建物の形態が矩形で単純な農家などの場合も今なお慣用されている。

 三六というのは、本建(下屋、差掛けを取除いた本体)が梁間三間、桁行六間ということである。縁下屋、後下屋が母屋の前後に半間ずつつくとすると奥行総計は四間になるのだが、問題は本建の大きさである。

 三六ということで伝統的農家の間取りモデルを試しに作ると次ページの図のようになる。
 六畳のおもて(客間、座敷)をとれば納戸(寝間)が大変窮屈になる。納戸を四畳半とすると、おもては四畳半になる。六畳か四畳半かでは住居の評価が違う。「ひとよせ」のもち方が異なる。

 四八にすれば上述したようなジレンマはなくなる。すべてがゆったりとしゆとりを見せてくる。だが四八は、明治になってからも誰にでもできるというものではなかった。四八にするには、二間梁が八~十本は必用になる。梁は松材を使用するが曲がりが少ない二間梁をそろえることは簡単なことでない。遠方から求めれば高価につく。それは梁材だけでなく、同様なことが桁材、柱材にも及ぶ。四八というのは、従って大した普請の住居を意味したのである。

 なお、注記したように三六と四八の中間に三半七という例もあり、しかも、中には後下屋を一間半出し、中の間付きという間取りが作られているなど、実質的には四八を超える間数を確保しており、建前と本音をうまく妥協させ、実をとるという工夫も試みられていた。

<一間半ひとかね(一矩)>
 ところで、丹後半島には、他に見られない中途半端な寸法をもつ住居があった。
 異口同音に大工さんたちは言う。「住居における間取りの中には、さすがに最近は出会わなくなったが、戦前には修繕仕事でちょくちょく見かけた」それは一間半ひとかね(一矩)という中途半端な寸法をもった住居でした。ひとかねというのは、一尺五寸、つまり曲尺の長さに相当する寸法であるが、一間半ひとかねとは、一間半プラス一尺五寸ということであり、それはまた、二間に満たないという寸法であった。

 一間半ひとかねを一間半まなか、二間ひとかねへらし、六畳ひとかね、などと呼ぶこっともあるが、こうした半端寸法は、かつて(明治以前)は丹後全域で普遍的に使用されたという。

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