『歴史の中で語られてこなかったこと』2

<『歴史の中で語られてこなかったこと』2>
図書館で『歴史の中で語られてこなかったこと』という新書を手にしたのです。
おお、「もののけ姫」のエボシ御前の正体ってか・・・これは読むしかないだろう♪



【歴史の中で語られてこなかったこと】


網野善彦×宮田登著、洋泉社、1998年刊

<「MARC」データベース>より
名作アニメ映画「もののけ姫」のエボシ御前の正体は? 女が支えた養蚕と織物の歴史の意外な事実、自由主義史観・教科諸問題まで、歴史学と民俗学の両雄が描く「列島社会」の歴史の深層。98年刊の単行本を新書化。

<読む前の大使寸評>
おお、「もののけ姫」のエボシ御前の正体ってか・・・これは読むしかないだろう♪

amazon歴史の中で語られてこなかったこと


第二部から「コメと日本人」を、見てみましょう。
p229~234
<主食になったのは農地解放後> 
網野:コメや水田に対して、日本人の思い入れが非常に強いことは、疑いのない事実だと思います。ただ、どうして、またいつから、そうした思い入れが始まるのかということになると、なかなかむずかしいところがあります。それが果して、水田を耕す人たち自身の中から出てきたものなのかどうかについても、厳密に考える必要がありそうです。というのは、実際に田地を耕作している人が、主食としてコメを食べられるようになったのは、戦後の農地解放以後だといわれるような現実があるわけですから。

 もうひとつ、忘れてはならない視点について申しますと、最近、琉球大学の集中講義ではじめて沖縄へ行きましたが、講義で「日本」という言葉を使うときに非常に緊張しました。つまり、明治政府の琉球併合まで沖縄、琉球は日本ではなかったわけで、うっかりすると「日本」といったとたんに歴史そのものをゆがめてしまうし、沖縄の人の心をきずつけることにもなりかねないからです。

 それは稲作についてもいえることで、簡単に「日本人とコメ」といいますが、沖縄が稲作社会であったかどうかは、かなり問題があるでしょう。まして北海道のアイヌはまったく違うわけです。

宮田:沖縄の人たちは、本土に住むわれわれのことをヤマトンチュと呼びますね。日本史の教科書はまさに畿内の大和政権、京都政権が、各地域に力を及ぼす形で記されています。そういう制圧される側からこちらを見ると、自然にヤマトという言葉が出るんでしょうか。

網野:そうでしょうね。しかし、「ぼくは甲州人で、決して大和人じゃない」と言ったんですけれども(笑)。私の郷里は山梨なんですが、水田はそれほど多くないですよ。だから、山梨県は遅れた県だ、山国だから貧しいのだといわれてきたのです。

 ところが最近、山梨県史に関わって少し調べてみると、中世、近世の山梨、甲斐は、決して貧しいとはいい切れないんですよ。たとえば、田地のほとんどない郡内では銭の流通が非常に活発です。独特の甲斐絹のような織物をはじめ、いろいろな産物を背景に盛んに商業をしている。

 盆地の方でも、川の交通が活発で、商人が非常に多い。いわゆる「甲州商人」ですね。これは水田を開発して増やしていく方向、稲作社会への志向とは違う方向に、甲州人が動いてきたということだと思います。少なくとも、そういう方向で動いている地域が、本州・四国・九州にもあちこちにあるということですね。

宮田:今おっしゃった沖縄と山梨には共通点がありそうですね。たとえばお正月にお餅を食べる習慣がない地域のひとつでしょう。沖縄はブタ肉を儀礼食にしている地域で、正月にお餅は食べません。山梨県内にも餅なしの事例が多いのでしょう。

網野:私の郷里では、正月1日に餅は食べませんね。

宮田:「うどん正月」という言葉があるくらいで、正月はムギから作ったうどんを食べる。お盆には畑からとれたソバ。とくに山梨はその傾向が強いんですが、一般に関東から東北にかけては、正月にお餅を強調いたりしません。餅はもともと西日本の稲作地帯から出たものでしょうから。

 お餅を食べる現在の日本らしい正月の風景はいつできたかというと、民俗学者の桜田勝徳さんは、城下町からだと言っています。また、やはり民俗学の都丸十九一さんの「餅なし正月と雑煮」という論文によりますと、江戸中期に高崎の城下町で、「正月にお餅を食べる習慣が、町の武士たちと商家で始まった」という記録があるという。

 明治に入ると、武士出身の人々が支配者のレベルに入ってくるから、自然とお餅を重視する習慣が浸透していった。お餅を食べるのは都市の民俗で、全国で当たり前になったのは昭和十年くらいです。つまり、お餅すなわち白米に対して高い評価を置くのは、18世紀以後の都会から始まって、明治にその地域が広がり、戦後に定着したわけです。しかもみんながコメを食べるようになったのは、配給制度を定めた食管法の成立後でしょう。それ以来、山の奥でもおコメを三度食べる習慣になってくる。

<稲作地帯は近世の現象> 
網野:コメが非常に普及していたと主張する方々は、よく、江戸では長屋の住民までコメを食べていた、だから日本人はみなコメを食べていたのだなどといわれるでしょう。実は、あれは都市の現象なんですね。事情はお餅とまったく同じで、江戸や大坂の都市民が三食ともコメを常食していた。

宮田:そうそう。その都市民というのがくせものなんです(笑)。

網野:山梨と同じような例をもうひとつ申しあげると、ここ十年間、奥能登で調査を続けておりましてね。この地域は中世の匂いが非常につよいところでして、地名にも中世の名(みょう)の名前がいたるところに残っています。時国とか常利、則貞のような地名は名の名残ですし、歩いてみましても中世の面影をよくとどめた水田があちこちにあるんです。

 実は、ついこの間まで、これは能登が遅れているから中世の名残が残っているのだと考えていたんですよ。ところが、よくよく調べてみますと、能登は遅れているどころか、中世以来、たとえば珠洲焼や鉄、鋳物、塩などのように、非農業的な生産が活発で、それを背景とした非常に活発な交易が行われているんですね。江戸時代になってもまったく同様で、商業、海運によるたいへんなお金持ちがたくさんいる地帯なんです。時国家はその典型です。

 この事実を前提に置いて考えますと、奥能登は遅れているから中世の水田が残っているのではない。むしろ能登人は水田以外の生業に全力を挙げている。しかし、水田は非常に大事な、永い伝統を持ったものとして中世のままに保全して、そこでは「饗のこと」のような神事を今でも続ける、というやり方をしてきたのです。水田を開発する方向には力を入れていないのです。

 同様に豊後の国東半島も中世の匂いが実によく残っている。ところが、国東は遅れているわけじゃなくて、瀬戸内海上交通の最要地ですね。こういうところにむしろ古いタイプの水田が残っている。こういう構造は本州・四国・九州のいたるところにあります。ですから、現在、コメどころといわれる東北、あるいは新潟のような稲作地帯が生まれてくるのは、近世的な現象なんです。とくに近世中期以後のことでしょうね。

 渋沢敬三が戦後まもなく言い切っていることですが、東北のコメの生産は企業だと言うのです。流れ者が来て水田を開いたわけではなくて、企業として水田の経営をやっているというわけです。渋沢さんはやはり炯眼をお持ちですね。

このような事例からもわかるように、日本人がコメに思い入れがあるというのはあくまでも一面の事実だということを十分認識したうえで、コメ問題を考えなくてはなりません。一時期の、一地域の事例をもって日本のすべてに及ぼしたり、歴史的にもはるか古くからの事実だと考えてしまうと、現代のコメ問題についても本当の意味の解決の仕方は出ないのじゃないかと思うのですが。


『歴史の中で語られてこなかったこと』1:タタラ集団・巫女・エボシ御前

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