『純情漂流』3
<『純情漂流』3>
図書館で『純情漂流』という本を、手にしたのです。
夢枕獏という著者名が女々しいせいか、この作家の本はスルーしてきたのです。
ところが、この本で描かれた漂流はかなりハードコアであり、見直した次第でおます。
大雁塔と玄奘三蔵像
「第二部一章 虚空の鶴」で、シルクロードを、見てみましょう。
『純情漂流』2:「なぜ天竺だったのか」の続き
『純情漂流』1:「なぜ天竺だったのか」
図書館で『純情漂流』という本を、手にしたのです。
夢枕獏という著者名が女々しいせいか、この作家の本はスルーしてきたのです。
ところが、この本で描かれた漂流はかなりハードコアであり、見直した次第でおます。
【純情漂流】 ![]() 夢枕獏著、角川書店、1992年刊 <「BOOK」データベース>より 天山越えの氷河古道ヒマラヤの白い高峰アラスカのユーコン下り…。作家・夢枕獏の魂の軌跡を綴った半自伝的紀行エッセイ。 <読む前の大使寸評> 夢枕獏という著者名が女々しいせいか、この作家の本はスルーしてきたのです。 ところが、この本で描かれた漂流はかなりハードコアであり、見直した次第でおます。 amazon純情漂流 |

「第二部一章 虚空の鶴」で、シルクロードを、見てみましょう。
p174~179 <「第二部一章 虚空の鶴」9> ぼくは今、長安にいる。 現在の呼び方で言えば西安だが、ぼくにとっては『西遊記』の昔からの長安である。 『長恨歌』にうたわれた、玄宗皇帝と楊貴妃との愛欲の日々があったところの長安であり、秦始皇帝の長安であり、そして玄奘三蔵が天竺へ向かって出発し、16年後に帰ってきたのがこの長安である。 それまで、名もない一沙門であった空海が、一千年以上も前、はるばる日本から辿り着き、二年の歳月を過ごし、密教を丸ごと貪り盗っていったのがこの長安である。 唐の都だ。 三千年の歴史を持つ都である。 シルクロードの東の果てだ。 ここから西に向かってシルクロードは始まり、一方の西の果てにはローマがある。 ほろ酔いだ。 長安一片月 長安一片の月 萬戸打衣声 万戸衣を打つの声 約千二百年前、李白がそのようにうたった月こそ出ていないが、ここは、まぎれもなく夜の長安である。 昨年の今頃も、ぼくは、せっせとひと夏を原稿を書いて過ごしたのであった。 昨年の夏は、凄い夏だった。 夏の間中、ぼくは、毎日毎日、蟻のいうに原稿を書いていた。ガタコン(SF大会)というSFファンのイベントが、やはり夏にあり、そこで影絵を久しぶりにやったりするために、原稿の合間をぬってあ、やありせこせこと細かい作業もしていたのである。 とにかく、たいへんな夏だった。 その年、ぼくは、9月後半から、10月後半にかけて、ヒマラヤに行かなければならなかったのである。 ヒマラヤの高峰を越えてゆく鶴を見るためである。 そのことについては、前巻の“あとがき”で触れた。 ぼくはそのキマイラの“あとがき”を書き終えて、ネパール・ヒマラヤへ向かったのである。 結局、鶴を見ることはできなかった。 ぼくを、ベースキャンプまで連れていってくれた遠征隊も、マナスル登頂を断念した。途中、雪崩にあい、シェルパ一名が死んだ。体力的には、ごくごく普通であるぼくのような人間が、一生のうちに、一度か二度、やっとあるかどうかという体験をさせてもらった。 テントの中で、くる日もくる日も、男同士が顔を合わせ、エロ話やらまじめな話などをした。春は、アフリカの砂漠をジープで走っていた男はいるし、ボルネオのジャングルでオウムを食っていた男もいる。 アフガンの地雷地帯をカメラを抱えて走ったことのある男もいる。 ぼくだけが、ただの小説家だ。 ひとりでは何もできないに等しい人間だ。彼等はそうではない。 それが何故かくやしかった。ほんとうはぼくは小説家ではなく、彼等のようになりたかったのではないか。 そんなことを考えながら、昨年の10月は、同じこのユーラシア大陸の山の中で、雪崩が上の方で始まり、ゆっくりと下に落ちてくる低い轟きを耳にしながら、ナイフを握りしめ、ぼくは寝袋の中で身体をこわばらせていたのだった。 (中略) もういとつは、大雁塔へ行くことである。 大雁塔は、玄奘三蔵が天竺から持ち帰った経典を翻訳するために建てられた慈恩寺の塔である。長安の街の南のはずれにあり、登れば北に長安の街を見ることができる。 現在の青龍寺には、当時の面影をしのぶものは、ほとんどない。 ぼくは道を訊きながら行ったのだが、辿り着けず、陽が暮れて夜になった。山にいて地図を見ることには自信があったのだが、その地図が正確でないのだ。実際に行ったのは翌日である。 タクシーを利用したのだが、しかし、車の運転手も一緒についてきたふたりの大学生も、青龍寺の場所を知らなかった。ようやく辿り着いてみれば、畑の真ん中で、形だけの寺らしき建物がふたつあったが、むろん、最近の建物であり、今は寺として機能してはいなかった。日本から送られた本や、青龍寺の建物や調度品のかけらを展示しているだけである。土産物屋が、中にあるだけだ。 空海の記念碑があった。石の碑だ。 つい最近建てられた、おおげさな碑だった。 |
『純情漂流』2:「なぜ天竺だったのか」の続き
『純情漂流』1:「なぜ天竺だったのか」
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