『容疑者の夜行列車』2

<『容疑者の夜行列車』2>
図書館に予約していた『容疑者の夜行列車』という本を待つこと1週間ほどでゲットしたのです。
この本の目次を見ると、まるでヨーロッパ鉄道旅行記のような本になっているわけで、ちょっと当てが外れたのでおます。


【容疑者の夜行列車】


多和田葉子著、青土社、2002年刊

<「BOOK」データベース>より
戦慄と陶酔の夢十三夜。旅人のあなたを待ち受ける奇妙な乗客と残酷な歓待。宙返りする言葉を武器にして、あなたは国境を越えてゆけるか。-稀代の物語作者による傑作長篇小説!半醒半睡の旅物語。

<読む前の大使寸評>
この本の目次を見ると、まるでヨーロッパ鉄道旅行記のような本になっているわけで、ちょっと当てが外れたのでおます。

<図書館予約:(10/11予約、10/17受取)>

rakuten容疑者の夜行列車


マルチリンガルの中国人学生との関わりを、見てみましょう。
p61~67
<北京へ> 
 鋼鉄の摩擦音が月を蝕み、駅が暗黒宇宙の真ん中にぽっかり浮かびあがる。どちらが上、どちらが東。あなたは、平均台の上を歩くように、腕でバランスを取りながら、停まっている汽車の方へ近付いていく。

 驢馬一頭分くらいの荷物を肩に背負って歩く女がいる。子供の手を引いて急ぎ足に歩いていく男がいる。二人連れの男。腰の曲がった老人。映画俳優のように額を輝かせる若者。道端に地蔵のように並んでいるおは、靴磨きの少年たちだ。物売りの裸電球の光が薄闇に滲む。濡れた紙に墨が滲むように。

 あなたは、運動靴やリュックサックに付いた商標を薄闇が隠してくれるのをありがたく思った。決して高級品ではないが、まだ80年代のことで、資本主義国の会社の製品を身に付けていただけで、外国人であることが分かってしまう。好奇の目から逃れて、まわりの人間達と同じ歩行の影になろうと務める。自分の乗る列車を探しているのは、どうやらあなただけではないらしい。

 きょろきょろうろうろしている人たちが他にもいる。目の前に列車が停まっているが、それに乗ればいいのかどうか分からない。あなたはポケットから、透き通るほどウうい切符を出して見る。列車の番号がカスレタインキで印刷されている。これが本当に切符なのだろうか。もし違ったら、という疑いが掠め通る。もし違ったら、騙されたのだから、又、お金を払って、新しい切符を買うしかない。

 騙されることが一番の勉強だ、と誰かが言っていた。ああ、馬鹿馬鹿しい。あなたはそういうもっともらしい説教が嫌いだ。苦い薬が必ずしも身体に効くとは限らない。甘い果物を買ったつもりでかぶりついて酸っぱかったら、ぺっぺと吐き出すだけだ。何の勉強にもならない。甘いものばかり食べて、良い仕事をした芸術家だっているはずだ。いないなら、自分がその第一号になってやろう。
(中略)

 途方に暮れていると、後ろから誰かが背骨をさわった。骨と骨の間の妙な隙間に指を入れるように。ぶるっと身震いして振り返ると、眉の美しい昨日の学生が立っていた。
 昨日、西安の町中で、この学生が声をかけてきた。七ヶ国語が話せる、という。

 夜行の切符を買うのには時間がかかる。自分が買ってきてやるから、あなたは観光でもしているがいい、と言うので、まとまったお金を渡し、夕方ホテルのロビーで逢う約束をして、別れた。ところが、別れて兵馬俑行きのバスに乗ってみると、あなたは不安になってきた。名前も知らない学生に大金を渡し、もし彼が戻ってこなかったら、どうするのだ。

 警察に話しても笑われるだけだろう。自分の国でも、知らない人にお金を渡してものを頼んだりはしない。なぜあんなことをしてしまったのか。1週間食いつなげるだけの金額だった。学生だから人を騙さないとは限らない。第一、あれが学生であるかどうかさえ分からない。語学ができるのは確かであるけれども、語学があんなにできるのは却って怪しいのではないか。真面目な生活を送ろうとする人間が、七ヶ国語も勉強するだろうか。疑う心から鬼がぼろぼろ生まれてくる。急に学生の美しい眉が妖しげなものに思われてきた。

 それは密に繁っているだけに毛虫のように見えた。艶やかではあったが、それは唾をつけて艶をつけていたのではないのか。繊細な指つき、しなやかな首、柔らかい声、少し照れたような笑い、悪いことなどできなそうな顔ではあった。しかし、羊のセーターを借りて着ている虎もいる。言葉が上手くて滑らかな人間に道徳的に優れた人間はいない、と昔中国の賢人が言っていなかったか。

 あなたは一日中落ち着かず、兵馬俑の人形達の顔を見ていても、そこに学生の顔が浮かび上がってくるようで困った。夕方、あなたは下痢をしてしまった。いらいらしながらロビーに早めに降りて待っていると、時間通りに学生が現れた。日中と全く同じ明るい眉をして、夜行の切符とお釣りをあなたに渡した。お釣りは予想外にたくさんあった。あなたは学生を疑ったことが後ろめたくなって、うつむいた。
(中略)

 あなたは本を読み続けた。少しも眠くならなかった。夜行列車の中では、理由もなくひどく眠くなることもあれば、一晩中眠れないこともある。
 三十分くらいたっただろうか。顎ヒゲ頬ヒゲ繁る商人が麦酒のにおいをさせて戻ってきた。ドアのところに立ったまま、上のベッドに横たわった桃の妖精たちと話を始めた。男が何か低い声でぶつけるように言う度に、二人は、ひらひらと笑うのだった。笑い声の中には言葉も混ざっていた。

 あなたが文庫本の活字から少しでも目をずらすと、男の骨盤の辺りが視界に入った。男の声は、聞いていると内蔵を触られるように不快だった。このまま深い眠りに入って、自分の周りにある世界を消してしまいたい、とあなたは思った。どのくらい時間がたったか、男はドアを閉めて、姿を消した。男はどうやら、他のコンパートメントに寝台を予約しているらしい。


『容疑者の夜行列車』1:グラーツへ


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント