『エクソフォニー』5

<『エクソフォニー』5>
図書館に予約していた『エクソフォニー』という本を、待つこと5日でゲットしたのです。
著者の『地球にちりばめられて』という小説を読んでいるところであるが、イラチな太子はさっそくこのエッセイ集を予約していたのです。



【エクソフォニー】


多和田葉子著、岩波書店、2003年刊

<「BOOK」データベース>より
自分を包んでいる(縛っている)母語の響きからちょっと外に出てみると、どんな音楽が聞こえはじめるのか。母語の外に出ることにより、言語表現の可能性と不可能性という問題に果敢に迫る、境域の作家多和田葉子の革新的書き下ろしエッセイ集。

<読む前の大使寸評>
著者の『地球にちりばめられて』という小説を読んでいるところであるが、イラチな太子はさっそくこのエッセイ集を予約していたのです。

<図書館予約:(8/31予約、9/05受取)>

rakutenエクソフォニー


「第一部 母語の外へ出る旅」で世界の20の都市が語られているのだが・・・
そのなかでソウルを、見てみましょう。
ここで、外来語に対する思いが語られています。
p60~63
<ソウル:押し付けられたエクソフォニー>
 2001年3月にゲーテ・インスティチュート(ドイツ文化会館)の招きでソウルに行った。ドイツ国外でドイツ文学研究者が一番多い国は韓国だと言われるほど、韓国のドイツへの関心は高い。最近はそれでもその関心がまた薄れる傾向があるという話も聞く。

 わたしの他には作家のスザンネ・ガーゼ、ザビーネ・ショル、研究者のミヒャエル・ボーラーなどがドイツ、スイス、オーストリアから来ていた。「トランスカルチャー」というテーマで、朗読、シンポジウム、講演、学生とのワークショップなどが数日間にわたって行なわれた。

 わたしは、東欧やアメリカにあるドイツの文化機関がわたしをドイツ語作家として招いてくれた時は手放しで喜んで行くが、ソウルは一度は断りかけた。行きたいことは行きたいが、韓国側はせっかくドイツから作家が来るというので喜んでいるのに、来るのが日本人では、がっかりするのではないかと思うと心配だった。

 しかし、その予想はみごとに裏切られ、韓国のドイツ文学研究者、作家、作曲家、学生たちは、熱心に対話を求めてきた。使う言葉は主にドイツ語だったが、ドイツ語を発する身体感覚が違う。聞き手の身体が具体的な暖かみとして感じられる。みんなで頭を寄せあって討論している時、又はいっしょに御飯を食べている時、会場へ移動する時、バスを待っている時、見も心も頭もそこにあって時間を分かち合う、というのはこういう感じだったのかと感動した。終わってソウルを離れる時には、別れの痛みさえ感じた。仕事で外国に行った時にはどんなにすばらしいところでも、別れの悲しみなど感じないわたしにとって、韓国は唯一の例外だった。

 パネル・ディスカッションの時、パネリストの一人であった作家朴椀緒さんに対して、聴衆の中にいた学生が「影響を受けた外国の作家は誰ですか?」という質問を出した。朴椀緒さんは、ドストエフスキーやバルザックを筆頭に、何人かヨーロッパの作家の名前を挙げた。すると、その学生は腑に落ちないというような顔をしてもう一度手を挙げて、「日本の文学は全然読まなかったんですか?」と尋ねた。

 今度は朴さんが驚いた顔をして、あなたは外国の作家で影響を受けたのは誰か、と聞いたのではなかったのか、日本文学が外国文学だという発想はわたしたちの世代にはない、わたしたちの若い頃は日本語を読むことを強制され、韓国語は読ませてもらえなかったのだし、だからドストエフスキーなどヨーロッパの文学も全部、日本語訳で読んだのだ、と答えた。

 母語の外へ出る楽しみをいつも語っているわたしだが、日本人のせいでエクソフォニーを強いられた歴史を持つ国に行くと、エクソフォニーという言葉にも急に暗い影がさす。母語の外に出ることを強いた責任がはっきりされないうちは、エクソフォニーの喜びを説くことも不可能であるに違いない。

 中国という文化的巨人と日本という侵略国家の間に挟まれて、韓国は徹底的に自分の言語の純粋性を求めるようになったのではないか、という印象を受けた。排除する対象は、日本語だけではない。漢字も排除されていった。「漢字を使わないようにしてハングルだけにしていったら、昔の本や学術書も読めないし不便じゃないの?」というわたしの質問に対して学生が「でも中国文化の大きすぎる影響を排除するためには漢字を使っていてはだめだ」と答えた。なるほど、漢字を使っていれば中国文化の巨大な傘の下から出られない。

 わたしは迷った。言語の純粋さ、文化の純粋さなどはありえない。それは自分で自分をだますことだ、とは思う。でも、日本語にはあまりにも漢語やカタカナが多すぎる。なるがままに無責任に放っておくのが、言語の自由な変身に繋がるのかどうか自信がない。だいたい外来語は勝手に入ってくるのではなく、誰か意識的に入れている人たちがいるのだ。

 彼らの顔が見えない。外来語を統制する動きがもし出てきたら、わたしは賛成するのか、反対するのか。統制というのはよくないことのようには思う。でも、フランス語などは、英語からの外来語が増えないように統制しているそうだ。それに比べて、日本語という言語は、なんだか衝動買いのせいで狭くなってしまった混乱したアパートの一室のように不要な外来語に溢れている。いらないものは買わない方がいいのではないか。

「おしゃれな大人の女性をターゲットにした、ライフスタイルのトータルブランドとして先シーズン、デビューし、二回めのコレクションとなる今回は丸の内のショップでコレクションを開催・・・」などという文章がごく普通に出回っている。
 カタカナで入ってくる言葉で一番多いのは、商品名と、それを飾り立てる形容詞で、中身の分からない外来物をありがたがる消費者の愚かさに付け込んで新製品を売るために外来語を入れているとしか思えない。


『エクソフォニー』4:ハンブルグ
『エクソフォニー』3:森鴎外とドイツ語
『エクソフォニー』2:マルセイユ
『エクソフォニー』1:北京


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