『アイヌと縄文』3

<『アイヌと縄文』3>
図書館で『アイヌと縄文』という本を、手にしたのです。
弥生文化を選択した現代日本人にとってのアイヌ人、縄文人という視点が、太子のツボに響くわけです。


【アイヌと縄文】


瀬川拓郎著、筑摩書房、2016年刊

<「BOOK」データベース>より
アイヌこそが縄文人の正統な末裔であることが、最近のさまざまな研究や調査で明らかになっている。平地人となることを拒否し、北海道という山中にとどまって縄文の習俗を最後まで守り通したアイヌの人びと、その文化を見ていけば、日本列島人の原郷の思想が明らかになるにちがいない。交易、祭祀、葬制、遺跡とその遺物、言語などの多方面にわたる最新のアイヌ研究を総合し、弥生文化を選択した現代日本人にとって、ありえたかもしれないもうひとつの歴史を叙述する野心的試み。

<読む前の大使寸評>
弥生文化を選択した現代日本人にとってのアイヌ人、縄文人という視点が、太子のツボに響くわけです。

rakutenアイヌと縄文



「おわりに」で、別世界のアイヌを、見てみましょう。
p221~223
<おわりに>
■山頂をめざす人びと
 私が勤務する博物館の収蔵庫のなかで、長く気になってきた資料があります。
 それは、北海道の尾根といわれる大雪山の小泉岳付近、標高2100メートル地点で採集された数十点の縄文時代の石器です。1924年から26年にかけて採集されたその石器は、数千年のあいだ風雨にさらされてきたことを物語るように表面が白く風化しています。

 採集されたのは、高山植物の花畑が広がる美しい場所です。しかし、天候が急変しやすい2000メートル級の高山ですから、現代でもそれなりの装備がなければ登ることはできません。
 縄文人はなぜそのような山頂に登ったのでしょうか。

 調べてみると、山頂に石器が残された縄文時代の遺跡は、大雪山だけではなく本州の各地でも確認されていました。

 山梨県甲斐駒ケ岳、栃木県男体山八合目、長野県八ヶ岳編笠山、同蓼科山のほか、標高1000メートル級の山であれば枚挙にいとまがありません。

 ただし弥生時代から古墳時代には、このような高山の山頂遺跡は確認できません。高山にふたたび登頂の痕跡がみられるようになるのは奈良時代以降であり、その足跡を印したのは山岳信仰・山の神信仰をもつ修験者たちでした。

 では、弥生時代になると山頂をめざす人びとはいなくなったのでしょうか。山岳とのかかわりが希薄な社会のなかで、修験者の山岳信仰が成立したとは考えられません。

 弥生時代から古墳時代には集落に近い里山で祭祀の跡がみられますが、中部・北陸地方には、弥生時代前期から中期にかけて、山岳地帯と深いかかわりをもつ人びとのいたことが明らかになっています。石川県と岐阜県にまたがる標高2702メートルの白山や、長野県と岐阜県にまたがる標高3067メートルの御嶽山では、山麓に弥生時代の人びとの移動ルートが確認されているのです。その人びとは山中に暮らし、焼畑と狩猟をおもな生業としていたのではないかと考えられています。

 かれらは石器のような痕跡を残さなかったものの、白山や御嶽山の山頂まで足を伸ばすことがあったかもしれません。縄文人の直接の末裔と単純に評価することはできないかもしれませんが、弥生文化に移行してもなお、狩猟をひとつの生業として山中に暮らし、高山地帯を渡り歩く人びとがみられたのです。

■私たちの知らない、別の世界
 松浦武四郎は、江戸時代の北海道をくまなく調査した探険家です。その『近世蝦夷人物誌』には、山中を住み家としながら、広大な北海道を漂白するアイヌの姿が記録されています。

 上川盆地に住むイキツカは、幼少のころから山岳を駆けまわり、大雪山系を住み家としながら太平洋側の十勝、オホーツク海側の常呂、日本海側の天塩まで猟に歩き、15、16歳のころには山刀と発火具だけを手に、三年のあいだ山から帰らなかったといいます。

 また同じ上川盆地のヲテコマは、山中にこもって冬から春のあいだはクマ、シカ、キツネ、テンを捕らえ、夏から秋にはサケ、マスを食糧とし、六年のあいだ里に帰らなかったといいます。


『アイヌと縄文』2:ニブタニ時代(鎌倉時代以降)のアイヌ
『アイヌと縄文』1:続縄文文化や水稲耕作





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