『アイヌと縄文』2

<『アイヌと縄文』2>
図書館で『アイヌと縄文』という本を、手にしたのです。
弥生文化を選択した現代日本人にとってのアイヌ人、縄文人という視点が、太子のツボに響くわけです。


【アイヌと縄文】


瀬川拓郎著、筑摩書房、2016年刊

<「BOOK」データベース>より
アイヌこそが縄文人の正統な末裔であることが、最近のさまざまな研究や調査で明らかになっている。平地人となることを拒否し、北海道という山中にとどまって縄文の習俗を最後まで守り通したアイヌの人びと、その文化を見ていけば、日本列島人の原郷の思想が明らかになるにちがいない。交易、祭祀、葬制、遺跡とその遺物、言語などの多方面にわたる最新のアイヌ研究を総合し、弥生文化を選択した現代日本人にとって、ありえたかもしれないもうひとつの歴史を叙述する野心的試み。

<読む前の大使寸評>
弥生文化を選択した現代日本人にとってのアイヌ人、縄文人という視点が、太子のツボに響くわけです。

rakutenアイヌと縄文

シャクシャイン


ニブタニ時代(鎌倉時代以降)のアイヌが語られているあたりを、見てみましょう。
p161~164
<ニブタニ時代(鎌倉時代以降)>
■聖域か首長居館か
 ただしチャシ(中近世のアイヌ遺跡)のなかには、ごく狭い壕で囲うなどした、砦とは到底考えられないものも数多くあります。
 そこで、アイヌの伝承や聞き取りをもとに、チャシは砦だけでなく祭儀をおこなう聖域や談判の場でもあったと考えられてきました。

 発掘調査がおこなわれた道東の陸別町ユクエピラチャシ遺跡(16世紀)は、砦と考えてもおかしくない規模です。しかし、わざわざ大量の白い火山灰で土塁の表面を覆うなど、聖域としての性格を強く示しています。さらにそのチャシのなかでは大量のシカの解体もおこなわれていました。単純に砦とみなすことはできません。

 また、日高の平取町ポロモイチャシ遺跡(15~17世紀)は、アイヌの集落の一隅に弧状の壕が二つ連なっており、それぞれの壕の内側に一軒ずつ建物があります。

 発掘調査の結果、一方の建物は、炉の灰のなかからシカや魚の骨、小刀、鉄鍋、鎌、陶磁器、漆器など生活用具が出土し、首長の居館に付属する作業場などの施設だったとされています。

 先ほどのオランダ東インド会社の船員がみた厚岸のチャシは、砦のなかにニ、三軒の建物があったとされますが、これも首長の居館と付属施設だったのかもしれません。実際、アイヌの伝説ではチャシを首長の屋敷とし、首長の宝を秘蔵する場所だったと伝えるものが少なくありません。

 同じオランダ東インド会社の船員が訪れたサハリン南部のアニワ湾では、アイヌの「もっとも権力のある人」の家が浜辺の近くの緑のなかに高く建っており、それは格子戸のある木柵をめぐらしていたとされます。木柵は壕と対になっていたにちがいないので、これもポロモイチャシと同じく首長居館としてのチャシだったのでしょう。

■祖霊崇拝とチャシ
 チャシの性格についてもうひとつ考えておかなければならないのは、祖霊崇拝との関係です。
 アイヌにはチノミシリ(われら・祀る・山)とよんで祀っていた霊山がありました。これを霊山とする家系の人びとは、祭りをする際かならずその山の名前をよび、酒を捧げて拝んだといいます。家系ごとに山を祀ったというのですから、チノミシリは血縁集団単位の祖霊崇拝にかかわる山だったといえそうです。アイヌはまた、山頂には特定の神が住み、特定の部落を守ると伝えていました。この山の神も、それを祀る血縁集団の祖霊と考えてよいでしょう。

 私は、チャシがこのチノミシリでもあったと考えています。旭川市がある上川盆地を例にアイヌとチャシの関係をみてみましょう。

 上川盆地に暮らしていたアイヌは、江戸時代の終わりころには300人ほどでした。かれらは100人ほどの三つのグループに分かれていました。石狩川筋の下流側に住む人びと、上流側に住む人びと、忠別川筋に住む人びとです。

 各グループはいくつかの集落からなっていました。それぞれの集落には首長がおり、その全体をグループの総首長が束ねていました。明治時代の記録によれば、グループは「風習」も異なっていたといいます。


『アイヌと縄文』1:続縄文文化や水稲耕作

陸別町のユクエピラチャシ遺跡については、陸別ユクエピラチャシ跡の紹介パンフレット完成で説明されています。





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