『昭和二十年夏、僕は兵士だった』2

<『昭和二十年夏、僕は兵士だった』2>
図書館で『昭和二十年夏、僕は兵士だった』という本を、手にしたのです。
例年、終戦記念日のころには、各メディアで戦争がとりあげられるわけで・・・
太子も気になったのです。


【昭和二十年夏、僕は兵士だった】


梯久美子著、角川書店、2009年刊

<「BOOK」データベース>より
南方の前線、トラック島で句会を開催し続けた金子兜太。輸送船が撃沈され、足にしがみついてきた兵隊を蹴り落とした大塚初重。徴兵忌避の大罪を犯し、中国の最前線に送られた三國連太郎。ニューブリテン島で敵機の爆撃を受けて左腕を失った水木しげる。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻を生き延びた池田武邦。戦争の記憶は、かれらの中に、どのような形で存在し、その後の人生にどう影響を与えてきたのか。『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(大宅壮一ノンフィクション賞)の著者が綴る、感涙ノンフィクション。

<読む前の大使寸評>
例年、終戦記念日のころには、各メディアで戦争がとりあげられるわけで・・・
太子も気になったのです。

amazon昭和二十年夏、僕は兵士だった




水木しげるさんの戦歴を、見てみましょう。
p180~184
みんなこんな気持ちで、死んで行ったんだなあ
『総員玉砕せよ!』では、突撃の後、多数の将兵が生き残る。しかし、かれらは存在することを許されない。すでに玉砕が発表されてしまた以上、生きている将兵は「ラバウル全軍の面汚し」なのである。

 かれらは再び玉砕を命じられる。死ぬためだけの、無謀な突撃をさせられるのである。 この二度目の突撃の後、一夜が明けて、丸山二等兵は累々と積み重なった仲間の死体をのなかで意識を取り戻す。重傷を負いながらも、一人生き残ったのだ。
 茫然として「みんな死んじまったあ」とつぶやいた次の瞬間、敵兵に狙撃され、彼も命を落とす。
(中略)

『総員玉砕せよ!』が掻き下ろしで刊行されたのは、水木氏が戦後26年たって初めてニューギニアを再訪した翌々年のことである。
「場所」には不思議な力がある。おそらく水木氏は、かつての戦地に立ったとき、死者たちの声に耳をすませ、その最後に思いを馳せたにちがいない。

 <ああ みんなこんな気持ちで、死んで行ったんだなあ>
 今まさに死にゆく丸山二等兵に言わせた言葉は、戦友たちが死んだ場所に立ったときの、水木氏自身の思いでもあるのではないか。だからこそこの台詞は、ほかの兵士ではなく、水木氏自身の分身である丸山二等兵が言わねばならない言葉だった。

26年目のニューギニア
 戦後26年目の再訪以後、水木氏は憑かれたように、十数回にわたってニューギニアを訪れることになる。

 学生時代に水木氏のもとで資料調べの手伝いをし、その後も長い親交のある評論家の呉智英氏は、水木氏からニューギニアを訪ねた話を聞いたときのことを、こう書いている。
<今、水木しげるは戦後初めてラバウルを再訪した日のことを私に語っている。死んでいった戦友たち、生きのびた自分。
「戦友たちは、うまいものも食えずに若くして死んでいったんですよ。その戦地に立って、ああ、自分はこうして生きていると思うとですなあ」
 水木しげるは確信を込めて言った。

「そう思うとですなあ、愉快になるんですよ」
 私は遠慮なく笑い転げた。目から涙がほとばしった。笑いは止まらないままであった。「ええ、あんた、愉快になるんですよ。生きとるんですよ、ええ。ラバウルに行ってみて、初めてわかりました」
 これほど力強い生命賛歌を私は知らない。生きていることほど愉快なことがこの世にあろうか。歴史は死者で満ちている。しかし、自分は生きているのだ。なんと愉快なことだろう>
(呉智英『犬儒派だもの』より)

 水木氏は戦争体験を語るとき、決して悲愴な顔をしないし、もっともらしいことも言わない。そして、ときに顰蹙を買いそうなくらい率直である。<愉快>という言葉には、一瞬、エッ!? と思わされるが、これは呉氏の言うように、実に率直な生命賛歌であって、死者を軽く見ているわけではない。むしろ逆である。

 やはり水木氏と親交があり、海外への旅に同行もしている足立倫行氏は、水木氏の自宅でニューギニア訪問のビデオを延々と見せられたときのことを、こう書いている。
<ビデオが終わった後、水木氏はいたずらっぽい顔付きで笑って言った。
「私、戦後20年くらいは他人に同情しなかったんですよ。戦争で死んだ人間が一番かわいそうだと思ってましたからね、ワハハ」
 そうだろうと、私は深く頷いた
(『総員玉砕せよ!』解説より)


『昭和二十年夏、僕は兵士だった』1

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