『小説新潮(2019年3月号)』1

<『小説新潮(2019年3月号)』1>
図書館で『小説新潮(2019年3月号)』という雑誌を、手にしたのです。
表紙に出ている特集「何。食べよっか?」と椎名誠の連載エッセイが借りる決め手となりました。


【小説新潮(2019年3月号)】


雑誌、新潮社、2019年刊

<商品の説明>より
特集:何。食べよっか?

<読む前の大使寸評>
表紙に出ている特集「何。食べよっか?」と椎名誠の連載エッセイが借りる決め手となりました。

amazon小説新潮(2019年3月号)


椎名誠の連載エッセイを、見てみましょう。
p115~116
<漂流者は何を食べたか>
 僕は「漂流記マニア」である。
 「漂流マニア」ではないですよ。それだと壊れた小舟かなんかに一人乗ってサメなどに脅かされ、喉の渇きに絶望しながら行きつく先のわからない日々を過ごすなんてことになる。そしてマニアというからには少なくとも年に2~3回はそういう状態を体験し、空を見ながら笑ってよろこんでいる、ということになる。変態だ。

 そういう趣味の人が年に一度は「趣味の漂流…流れ者の会」なんてのに集まって「いやあ、みなさんまだ生きてましたか。わたしの今回の漂流はスコールもなくて自分の小便飲んでましたけど慣れてくるとあれもいいもんですなあ」なんていうことを話し、例会のメンバーに拍手なんかしてもらう、ということになる。やっぱり変態だ。

 「マニア」なんて書いたからのっけからおかしなコト言ってるんだな。

 常に生死の境に怯える漂流なんか絶対に体験したくない。ぼくが好きなのは正確に言えば「漂流した人の苦しい体験記」を読んで、ああ、こんなことになったら嫌だなあ。もうわが人生、たとえ矢切の渡しなんてのでも舟に乗るのは絶対にやめよう、などと心に誓い、よく冷えた生ビールなどを飲む、という漂流記趣味なのである。

 “漂流記もの”というジャンルがあるとしたらぼくは小学生の頃にそれに目覚めていた。子供の頃の読書体験というのは場合によってはその後そこそこ長きにわたる人生に大きな影響を及ぼすもので、ぼくは学校の図書室で小学六年のときに読んだ数冊の本から、その後のわが人生にかなりの指針を与えられたような気がする。


 たとえばチャールズ・ダーウィン、スヴェン・ヘディン、ジュール・ヴェルヌ、トール・ヘイエルダール、などといった博物学者兼探検家の本にココロを奪われ関連本をむさぼり読んできた。
 その年頃のニンゲンに及ぼす書物の夢、書物のちから、というものはとてつもないもので、ぼくはその後大人になって自由に世界をうろつき回れるようになると、これらの先人らの足跡を追ってマゼラン海峡、ビーグル水道、タクラマカン砂漠のなかのロプノール、ジューヌ・ヴェルヌの十五少年漂流記のモデルとなった島チャタム島などなどに足を運んでしまった。

 それらのなかには現代でも行ってみると冒険、探検の様相をもったままのエリアがあったが、さすが1世紀以上の時を隔てると移動手段、通信手段などをはじめとして、当時から較べたらそうとう軟弱な後追い体験だった筈だ。ひとつだけ、どうしてもできそうになく、はなから諦めてしまったのはヘイエルダールのバルサ材の筏「コンチキ号」による実験漂流記であった。

 先述したように漂流気は、基本的には何かの予測しえない事故、事件によって思いがけなく何もない海洋に流されてしまったあとのサバイバルの記録であり、ヘイエルダールのそれは学術的な民族移動を体験的に証明するものであった。

 ヘイエルダールはその実験漂流のあと、パピルスという名の葦などの浮揚率の高い植物で作った筏などによって何度も漂流実験をし、それらの記録を読むたびにぼくはなぜか切歯扼腕したのだった。

 漂流の追体験だけはぼくには到底できる度胸も能力も可能性もなかったからなのだ。
 けれどヘイエルダールのこの探検記シリーズによってぼくは長年にわたる世界各国の人々による漂流記を読みあさるようになった。殆んど無防備といっていい状態で海に投げ出され、艱難辛苦の末に生還した人々による体験記ばかりである。



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