『稲を選んだ日本人』3

<『稲を選んだ日本人』3>
図書館で『稲を選んだ日本人』という本を、手にしたのです。
注目点は要するに、水稲耕作という文化衝撃に抗った縄文人がいたのではないか?と思うわけです。


【稲を選んだ日本人】


坪井洋文著、未来社、1982年刊

<「BOOK」データベース>より
古書につきデータなし
 
<読む前の大使寸評>
注目点は要するに、水稲耕作という文化衝撃に抗った縄文人がいたのではないか?と思うわけです。

amazon稲を選んだ日本人


餅の禁忌について、更に見てみましょう。
p104~110
<稲を選んだ日本人>
 群馬、栃木、埼玉の諸県から出た民俗誌の類によると、いわゆる北関東地方は新年に餅を禁忌する資料量の全国的にもっとも顕著な地域である。群馬県ではとくにその傾向が強く、昔から「イモは陰の俵」という諺があるように、日常的にも主食的な位置にあったようである。

 この県にはまた、稲の栽培を禁ずる集団と、里芋の栽培を禁ずる集団とが、わずかながら認められる文化的緊張地帯でもあり、今後の調査分析の急がれるところである。その点で、おそらく宮田茂を中心とした邑楽郡板倉町史編纂室のメンバーの調査と分析が、のちに述べるように、この問題を解く鍵を握っていると考えられる。

 なお群馬県に続く長野県、岐阜県などの中部山地地方にも点々と餅の禁忌が認められるが、そうしたなかでも、餅とイモとの等価値的存在が注目されるのである。

 静岡県磐田郡佐久間町戸口では、昔から焼畑農耕をおこなってきた30戸ほどの村であった。焼畑には、アキヤブとて7月上旬に焼いて、初年は蕎麦、二年目に稗、三年目に小豆、最後の年にイモ(里芋)を栽培する技術と、ハルヤブとて5月ころに焼いて稗を播く技術とがある。イモは食事に欠かせぬもので、夜になるとどこの家庭でもユルリに大釜をつるし、塩を入れて水煮にした。

 煮詰まって水が少なくなると、ピーッという音が盛んに出しはじめ、イモの煮えたことを知る。そこで茶を飲みながら家族が集まって食べた。また、うでたイモを串にさして味噌をぬり、ユルリバタで焼いて食べることは毎朝の食事の常で、これをクシモ(串芋)といった。

 クシモはモンビ(行事日)とか雨が降って仕事を休んだ日にも作って食べた。10月ころに収穫してイモモロ(芋室)に貯蔵しておき、翌年の7月ころまで食べたという。このように稲の収穫できぬ所でも、新年の三カ日にはイモにダシを入れて煮て、その上に餅をおいて雑煮にし、神仏に供え人々も食べたのである。大晦日のトシノバンには米の飯を食べたが、家によっては米は天皇しか食べぬものだといっていたという。

 餅とか飯はイモと並行して儀礼食を構成しているとはいえ、餅や飯の不安定な位置づけがよく現れており、稲作の不適地地帯において、それを禁忌とすることなく、むしろイモが儀礼食として普通であるという原観念を見逃すことはできない。ここには禁忌の成立の要因となる文化的装置ともいうべき法則性発見の一端がのぞいているようである。

ウン イモが主食的な位置にあったことはよく分かった♪だけど・・・
縄文人(あるいは弥生人)が水稲耕作に抗ったかどうか?については、あまり触れていないなあ。

『稲を選んだ日本人』2:稲を選んだ日本人
『稲を選んだ日本人』1:稲を拒否した日本人

この本も縄文人の世界R7に収めておくものとします。

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