『アジア路地裏紀行』3

<『アジア路地裏紀行』3>
図書館で『アジア路地裏紀行』という文庫本を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくってみると・・・
フリーランンスライターたちのアジア紀行集となっていて、興味深いのです。



【アジア路地裏紀行】


下川裕治著、徳間書店、1999年刊

<「BOOK」データベース>より
インドの娼窟へ売られたネパールの少女ジーナ、バングラデシュの農場長の家で働く奉行人チョビー、サイゴンの街を走るシクロ乗りの男たち、マニラのストリート・チルドレン…。アジアの国々には貧しいながらもたくましく、力強く生きる人々がいる。元気をもらうため、今日も私たちは彼らとの出会いを求めるのだ。ツアーでは見られないアジアの貌。これを読めばアジアにハマること請け合い。

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくってみると・・・
フリーランンスライターたちのアジア紀行集となっていて、興味深いのです。

rakutenアジア路地裏紀行

仁寺洞にて

1987年当時の仁寺洞を、見てみましょう。
p260~264
<仁寺洞の古書店魂:内澤旬子>
■まだ女子大生だった頃、仁寺洞は…
 初めてソウルを訪れたのは、そんな病に罹るもっともっと前の話だ。
 当時から風変わりな文字に興味があった私は、大学でハングル語を受講し、韓国からの交換留学生と友達になった。きまじめな異国の友人たちの熱心な招待に親を説得して初めての海外旅行にこぎつけたわけだ。

 当時、景気の良さも手伝って、海外に自由旅行に出掛ける学生が、ごく一部のお金持ちか、冒険人間だけではなくなりかけていた時期だったと思う。どうしてなのか思い出せないのだが、一人歩きのためのガイドブックの存在も、貧乏旅行のやり方も、なにもかも知らなかった。ハングルの講座に旅慣れた友人の一人でもいれば大分ちがっていたろうが、下関から船で韓国に行けることすら知らなかったのだから。

 ハングルができるといってもしょせん専攻科目の合間に受けていた趣味のようなもの。しかも長文読解ばかりやっていたので、会話に必要な言葉がちっとも出てこない。それはそれで、話しかけてみれば勉強になる、なんとかなるさと、重い文法書と辞書を抱えてソウルの金浦空港に降り立った。

 甘かった。酷い目に遭ったのではない。酷い目にすら遭えなかったのだ。韓国の友人たちが私を片時も一人にしてくれなかったのである。
 日本のキャンパスでは、女の子は男に守られるべきものなどという発想は既に消えていた。男をアゴであしらう女はいたけれども。バブルもブランドも関係なく、地味に過ごしていた私は、多少暗かろうが新宿2丁目だろうが、勝手気ままにどこでも一人でてくてくと歩いていったし、それを咎める男子学生などいなかった。
 リスクさえ自分で引き受ける覚悟があれば、不自由を感じることはなかった。それに当時、新宿も渋谷も今よりずっと安全だった気がする。

 そんな私が、金浦空港での出迎えからずっと、一人じゃ何もできないお姫様扱いされたのだ。とにかく誰かがついていてくれる。友人が多いことも仇になった。彼らは朝宿に迎えに来て、夜帰るまで、御前は誰、午後三時までは誰、と、ローテーションを組んで完全監視体勢を敷いてくれていたのだ。彼らの親切は、さながら幼児のめんどうを見る父親のようで、下心すらも感じさせない。それも全員日本語学科専攻の学生なのだから、私がハングルを聞き取るヒマもなく通訳してくれる。しかも彼らのうち半数は兵役経験者だったから、大学生といってもすでに社会人の分別が備わったオトナに近かった。

 はじめのうちは確かに助かった。いきなりお姫様に祭り上げられて、ちょっとはうれしかったこともある。しかし、二日もしないうちに彼らには申し訳ないがイライラしてきた。一人でやってみたい、と何度か訴えたが、遠慮していると深読みされる以前に、言葉が不自由な女性の一人歩きなど、彼らにとってみれば、考えられないという風情。私の方も一人歩きの情報をロクに持っていないのだから強く出ることができない。

 今思えば、彼らの言い分も正しい。87年の韓国は、ようやく落着いて来ていたが、まだまだモノモノしい空気が漂っていた。夕方5時か6時になると、国歌が街に流れ、道を歩いている人が一斉に立ち止まって直立不動になっていたし、南山公園から下に広がるソウルの街を撮影することは、スパイ行為とみなされ、禁じられていた。あとから知ったことだが、この年にようやく自由な出版活動ができるようになったばかりだった。

 そこにお気楽な日本の女子大生がふらふらと、直立不動の人達や、選挙ポスターに歓声をあげて候補者のポスター全員分をカメラに収めたり、観光地でもない街並みにカメラを向けたのだ。政情を知らなかった訳ではない。講座で新聞の社説を読んでいたから、与野党の名前だって知っていた。ただ、想像力が働かなかったのだ。つまりバカだった。今の私が彼らの立場でも、ソウルの街に放し飼いにするのはためらったかもしれない。
(中略)

 ソウル滞在何日目だったろうか。光化門にむかう広々とした道路にそびえ立つイスンシン将軍の像を見上げ、景福宮をふさぐように建てられた旧日本総督府の中央博物館を見学し、頼もしいボディガードたちに、さて次はどこに行きたいか、と訊ねられた。青磁の香炉が買えるところ、と言うと、
「じゃあ仁寺洞に行きましょう。ここからすぐですから歩きましょう」
 と、私のかばんを手にとると、ゆっくり歩きだした。

 光化門の辺りは東京でいえばどこに当るのだろうか。景福宮の後ろが青瓦台、首相官邸だから、皇居の辺りか。とにかく高層ビルばかりの所だった。いや、光化門以外の場所もそれまで私が案内された所は、東京と同じようにビルばっかりで、私は、少しうんざりしていた。それが、一歩ビルの脇に延びる細い道に入ると、ガラリと様相が変わり、小さな店がひしめいている。

 キョロキョロしながらついていくうちに、道なりの建物が、どんどん古めかしくなってきた。さらに細い道に入ってしばらくいくと、50年くらい前にタイムスリップしたような低い丸瓦の屋根がずらずらと続く家並みになっていた。まっすぐだった道も迷路のように入り組んできた。車が入れる広さではない。家の入り口と思われる所には、直径十センチ、高さ十五センチくらいの黒い練り炭がまとまって置いてある。煮炊きに使うのだろうか。レンコンの断面のようにたくさん穴が空いている。

 ついさっきまで高層ビルのただ中にいたはずなのに、チマチョゴリを着た人が今にも家から出て来そうな景色になってしまった。
 軒下には青磁や白磁の湯飲みなどが雑然と並んでいたかと思うと、大きな筆がぶら下がり、ガラス越しに沢山の種類の紙が並んでいるのがぽつんぽつんと見える。これまで見たソウルとはかけ離れた風景に、私はしばし立ち尽くした。

「ここが仁寺洞です。ジュンコサン」
 仁寺洞は、もともと李氏朝鮮の時代から景福宮に仕える文人階級、両班が住む地域だった。近代になって、彼らが自分の持っている書画骨董を主に日本人に売るために店を開いたのがはじまりだったという。高価な商品の取引を円滑にするために料亭が、古い書画を仕立て直すために表具屋が、通りの裏手にできていき、古めいた独特の街並みを形成していった。

ウーム まだ若かりし頃の旬子さんであるが・・・書画骨董の収集にかける拘りがすごい。

『アジア路地裏紀行』2:ソウルの路地裏
『アジア路地裏紀行』1:中国人を嫌うモンゴル

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