映画パンフレット『ラストエンペラー』2

<映画パンフレット『ラストエンペラー』2>
本棚に積んどく状態になっている映画パンフレットを整理していて・・・
つい、『ラストエンペラー』のパンフレットの記事にひかれて、つい読みふけっていたのです。


【ラストエンペラー】


ベルナルド・ベルトルッチ監督、1987年イタリア・中国制作

<商品の説明>より
映画パンフレット「ラスト・エンペラー」(1988年刊)、出演 ジョン・ローン/坂本龍一/ジョアン・チェン/ピーター・オトゥール/高松英郎/立花ハジメ

<大使寸評>
新開地の古書店で、このパンフレットを300円で買ったのだが・・・
定価500円だからリーズナブルなんでしょうね。

amazonラストエンペラー



ベルトリッチ監督や坂本龍一が語られているので、見てみましょう。

<幻影の王国とスペクタクル:武邑光裕>
 アルベルト・モラビアの小説『コンフォルミスト』(日本公開名『暗殺の森』)を映画化したベルトリッチにとって、『ラストエンペラー』の映画化はまさに絶好の題材であったといえる。2年程前に、ベルトリッチが清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀の生涯を映画化するという話を耳にした時、僕のイメージの中で増殖した作品が『暗殺の森』である。

 ヨーロッパと中国という相違はあっても、ベルトリッチが描く中国最後の皇帝の映像っは、ジャン=ルイ・トランティニャンとドミニク・サンダが彷徨したヨーロッパ現代史の森の中へと融解していく。
(中略)

 『暗殺の森』や『1900年』を延長させるベルトリッチの新作『ラストエンペラー』は、現代史の急変する時代状況の中で翻弄される人間たちの姿を、過去の時空の中で停滞させるのではなく、常に現代の時間軸から遡行していく視点移動によって表現した。そして、ドラスティックな物語の空間は、綿密な構成と計測されたカメラによって、緊張を呼び覚まし、まさに映画的空間における独自のスケールを設定したのである。しかし、ベルトリッチ4年がかりの大作は、興行的に思わぬ強敵と戦わなくてはならなかった。

 『ラストエンペラー』の公開と共に、昨年の暮れの映画界に大きな話題を提供していたのが、スピルバーグの『太陽の帝国』である。激変する中国の現代史と絡み合う人間ドラマである『太陽の帝国』は、『ラストエンペラー』同様、急変する中国現代史を舞台とした作品として、タイムリーな話題を喚起していたのである。

 すでにロスアンゼルスのチャイニーズ・シアターで一足早く見る機会を持った『太陽の帝国』は、先鋭的なSF作家J・G・バラードの原作になる極めて刺激的な作品であった。最も、原作であるバラードの世界は、限りなくスピルバーグの世界へと移管されており、そういった意味からもスピルバーグという最もメジャーな映画作家が放ったアート・フィルムは、『ラストエンペラー』のベルトリッチと共に、エンターテイメイトとアートの狭間をめぐる大作映画のニュー・スタイルとして大変興味深い作品であった。

 ベルトリッチの中国でのロケーション、特に紫禁城ロケは圧巻であったが、スピルバーグの上海ロケを中心とした中国での撮影は、『ラストエンペラー』の映像空間を上回る程の驚くべき密度を持っていた。昨年の2月、スピルバーグの撮影隊とほぼ同時期に、上海に滞在していた僕は、『太陽の帝国』の上海ロケが、すべて上海の街路での実際の撮影であることを直ぐさま確認できた。

 何より、スピルバーグの『太陽の帝国』は、『ラストエンペラー』との対比の中で語られるだろうが、この二つの作品は、'87年から'88年にかけてのアメリカ映画に、最も大きな話題を提供することは疑い得ない。私的な余談を付け加えれば、『太陽の帝国』でガッツ石松と山田隆夫、そして伊武雅刀の絶妙な存在感を引き出したスピルバーグの才能には、三船敏郎以来、アメリカ映画の中の日本人像を改変する力学が働いているかに思えたのだ。それは、描出されるキャラクターの設定にこそ違いがあるが、『ラストエンペラー』における坂本龍一にも相通じる文脈を提出させたのである。

 ともあれ、かつてヨーロッパの現代史にうごめいていたテロルの人間たちに魅せられたベルトリッチは、イタリアやフランスのヨーロッパ風景の暗部の中に、壮絶な人間ドラマを凝縮してきたが、『ラストエンペラー』における映像ランドスケープは、まさに紫禁城という迷宮の構図に遡行する溥儀の回想と記憶によって織り成されていた。

 城郭の外縁に、開かれた世界を求めた溥儀が、ヨーロッパ近代への追慕を断ち切られ、その幻想の王国に写像された満州国に最後の皇帝の意思つなぎとめる時、さらに、文革の中国を生き抜き、10年以上に及ぶ収容所生活を経て特赦された溥儀が、かつて栄華を誇った紫禁城を訪れ、歴史というドラマを演じた自己の存在を透視する瞬間に、人間を覆いつくす制度と思想の回廊が浮上してくるのである。

 急変する歴史の回転期に揺れ動く人間のドラマを、中国の巨大な制度変換と写し鏡のように描いたベルトリッチは、その一貫した映像美学の中でスペクタクルという映画の持つパースペクティブを再編する。それは、ビットリオ・ストローラの計測されたカメラであるばかりか、紫禁城を中心に二万人に及ぶエキストラによって設定された壮大な構図にのみあるのではない。それは、ベルトリッチによって描かれたグラン・ロマンが放つ、映画そのものの愉楽に起因するのだ。

 2時間43分に及ぶ長尺の物語が、暗闇に身を沈める画像体験であるという最も基本的な抑制であることを考えれば、この物語を形成させうる巨大な力とは、映像によって放たれる俯瞰や鳥瞰のロング・ショットに写し出される壮大さと、細部に宿る神ならぬディティールの意匠との緊密な対称構図である。
(中略)

 溥儀の乳母の乳房に始まり、皇帝のみが着用できる黄色の服、大統領の自動車、ピーター・オトゥールが演ずる英国人家庭教師レジナルド・ジョンストンがもたらす自転車とテニス、そして坂本龍一が演じた甘粕大尉の映画カメラに至るまでのディティールは、実はオーソドックスを装う映像の組織的な運動が、極めて細部にわたって設定されていることの証左あるといえる。

 ベルトリッチが設定した歴史の時間運動は、人間の時間がどのように歴史という時間に仕組まれていったかを、裏返しで投射することで、多彩な人間模様を描出させ得たのである。愛新覚羅溥儀が、制度の変換の中で固執した幻影の王国が満州であれば、甘粕が固執した満州は、まさに映画カメラの中でのみ機能する幻影の王国であり、日本の民族支配におけるイニシエーションを象徴する現実のシミュレーション映像でもあった。

 溥儀のジョン・ローン、甘粕の坂本龍一という興味深い体面も、この映画を飾るハイライトである。『戦場のメリークリスマス』以来、映画俳優と音楽監督として参加した坂本は、ベルトリッチのスタイリッシュな演出と設定を借りて、極めて印象深い役柄を演じたといえよう。デビッド・バーンとスー・ソンとの競作となった音楽も、全篇、坂本龍一の手によって入念に仕上げられている印象を持った。

 映画音楽という緻密で綿密な作業が、ベルトリッチの映像と絡み合う瞬間も、いわば映画が所有する映像の組織運動であれば『ラストエンペラー』における坂本の才能は真にワールド・ワイドな時空へと開花したのである。

『ラストエンペラー』と『太陽の帝国』の制作が同時進行していたのか・・・
CGXのない時代だから現地撮影とエキストラの大量動員が欠かせないわけで、中国側の協力が成功の前提条件だったようですね。

映画パンフレット『ラストエンペラー』:関東軍によってつくられた「満州」という国

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