『新説・あなたの知らない岡本太郎』1

<『新説・あなたの知らない岡本太郎』1>
図書館で『新説・あなたの知らない岡本太郎』という大型ムックを手にしたのです。
雑誌『カーサ ブルータス』の特別編集ムック・シリーズとのことであるが・・・大型本の全篇に画像満載であり、ええでぇ♪
ぱらぱらとめくると、太郎さんの家の内外の写真が多く、興味深いのです。


【新説・あなたの知らない岡本太郎】


ムック、マガジンハウス、2011年刊

<出版社>より
ムックにつきデータ無し

<読む前の大使寸評>
雑誌『カーサ ブルータス』の特別編集ムック・シリーズとのことであるが・・・大型本の全篇に画像満載であり、ええでぇ♪
ぱらぱらとめくると、太郎さんの家の内外の写真が多く、興味深いのです。

rakuten新説・あなたの知らない岡本太郎


山下祐二さんの説く「岡本太郎学入門」の第三講を、見てみましょう。

<縄文の発見>p80~81
「私にとって、本当に闘う場所はここではない。・・・自分が捨て去ったつもりでいた『日本』が、大きく目の前に浮かび上がってきた。確かに精神的にとざされた場所かもしれない。しかしそこでこそ自分を賭けよう」(岡本太郎「破局」)

 そう決断し、日米開戦直前の1940年6月、マルセイユを発つ最後の引き揚げ船で帰国した太郎を待っていたのは、フランスでの芸術運動について口にしようものなら、非国民として糾弾されかねない「大日本帝国」だった。パリでもてはやされ、太郎の渡欧と入れ違いで日本へ戻っていた藤田嗣治はすでに戦争を題材とした「戦争画」を描いていた。

 しかし太郎は反戦画も戦争画も描こうとはせず、中国戦線に従軍、1年の抑留生活を含め、後に「冷凍されていた」と述懐する5年間を過ごす。そしてどこまでも対照的なことに、藤田は戦後日本を捨て、太郎は最深部へと突っ込んでいった。そのきっかけとなったのが、「縄文」の発見だったのだ。

 フランスからの帰国直後、太郎は奈良や京都へ足を運んでいる。「戦前パリから帰ったとき、私はまず最初に京都、奈良に行った。しかし、絶望した。日本的なものの典型のように言われている京都、それは何百年か前には日本だったろうが、いま残っているのは格好だけ。現実の日本ではない。さらに奈良。これは大陸文化そのものだ。古代の中国や朝鮮から直輸入した、これがどうして日本なのか。
 わたしは見て歩きながらしらけた気持ちになった」(同書)

 ところが51年の暮れ、別に見るものがあって訪れた東京国立博物館の、最後に立ち寄った考古の展示室で、太郎は縄文土器に出会う。その時の様子を、岡本敏子が私との対談で語ってくれた。「『ん? なんかヘンなモノがあるぞ』っていうわけ。・・・縄文土器がなんでもないようにひっそり、石器などの隣に、標本のように置いてあったの。・・・それを見て震えあがっちゃったのね。『なんだこれは』って、かーっと来て、周りをぐるっと回って、それで動けなくなっちゃった」(山下祐二『岡本太郎宣言』)

 翌年、太郎は『みずゑ』に「四次元との対話 縄文土器論」を発表。日本史の教科書の冒頭にまず縄文土器の写真が掲載され、2009年に東京国立博物館で開催された『国宝 土偶展』に若い世代が詰めかける現代では信じられないだろうが、戦前は縄文の土器や土偶が美術として評価されることはほとんどなく、考古学の領域でも年代や出土地、文様の分類に終始していた。そこへ投げ込まれた「縄文土器論」が、一大センセーションを巻き起したのだ。

「なかんずく爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである。激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する降線紋。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粋に透った神経の鋭さ。常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである」(岡本太郎『日本の伝統』)

 このように縄文土器の造形そのものから受ける感動を言葉にし、美術史にとどまらない日本文化論の根幹をなす造形芸術だと、メディアを通じて広く知らしめたのは岡本太郎が初めてだろう。

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