『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』3

<『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』3>図書館で『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』という雑誌を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくると・・・
藤田の作品はもちろん秘蔵の手紙や日記、写真など満載で、ええでぇ♪


【藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)】


雑誌、新潮社、2018年刊

<商品の説明>より
◆特集◆藤田嗣治と5人の妻(おんな)たち
フジタの絵は、妻が替わるたびに変容を遂げた。
妻たちとの関係、そして秘蔵の手紙や日記、写真などから、名画誕生の秘密を探る。

●妻たちを通して振り返る画家の軌跡
1.とみ 真夏の恋で結ばれた、同い年の才媛
2.フェルナンド フランスへの同化を誘った女流画家
3.ユキ 絶頂期を共にした“トロフィー・ワイフ"
4.マドレーヌ 中南米遊歴の果て、日本に散った薄幸のミューズ
5.君代 花も嵐も踏み越えて添い遂げた、最後の妻

●奈良美智がカメラでたどるフジタの愛した場所

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると・・・
藤田の作品はもちろん秘蔵の手紙や日記、写真など満載で、ええでぇ♪


amazon藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)

メゾン・アトリエ・フジタ

フランスで藤田の住んだ家を奈良美智が訪ねているので、見てみましょう。
p58~64
<メゾン・アトリエ・フジタ >
 藤田嗣治は引っ越しを多くした人だ。日本からフランスに渡ってパリのモンパルナスにに住んだが、パリの中でも彼女が変わる度に数回家を変えた。戦争中は日本に戻っていたが、戦後はアメリカにも住み、そこからパリへ渡り、最終的にはパリ郊外の小さな村に家を買って、そこで暮らした。結局のところ、その家が彼にとって終の住処になったのだ。
 ヴィリエ=ル=バルクという人口3000人ほどの村を訪ねたのは、5月末の過ごしやすい季節だったが、天気はあいにくの雨だった。けれどもその雨は観光気分だった自分を一転させ、かつてドイツに12年暮らした頃の感覚に戻してくれた。小さな村だと感じたが、藤田が住んでいた頃の人口は400人足らずだったそうだ。

 幹線道路を外れた昔からの街道沿いに藤田の家は建っていた。あの有名な画家、藤田の家にしては拍子抜けするほど小さく普通の家だった。しかし裏に回ると斜面に建てられていることがわかり、道路からは2階建てに見えるが庭側から見ると実は3階建てになっている。表からは普通の村人が暮らすのとまったく同じように見えた家は、裏から見ると採光のための大きなガラス窓がはめ込まれた画家の家だった。

 1960年、73歳で買った18世紀の民家を藤田はとことんリフォームしていた。村に溶け込んでいるように見えた道路沿いの顔も、実はドアや窓の位置が代えられていたし、家の中にしても買った時とは別世界のように変えたのだ。

 表にある玄関ドアはスペインで手に入れたという古い木製のもので、ドアの上の壁には型取りされた馬に乗る騎士のレリーフがはまっている。ドアを開けて中に入ると、そこからは藤田自らが作った諸々の小物たちや収集されたものたちのオンパレード。センス良く配置されたそれらは、自作なのか、どこかの蚤の市で手に入れたものなのかわからなくなるくらい一体感を持っている。しかも、カーテンやクッションも彼が自らミシンを踏んで縫ったものだ。

 玄関から台所、イマ、寝室、すべての部屋がそのような手作りの世界で出来ている。よくよく見れば、テーブルの上に置かれた皿や杯、壷や水差し、それらの陶器でさえも南仏にある陶芸の町ヴァロリスに赴いて、自らが絵付けしたり作陶したものだった。
(中略)

■純粋な喜びに溢れたものたち
 自宅でありアトリエであったこの建物に、1968年に藤田が亡くなった後も、君代夫人は日本に帰国するまでの23年間、ひとりで住み続けた。帰国にあたり、夫人は地方自治体にこの家を寄贈する。その後、準備期間を経て2000年に藤田の記念館としてオープンした。コンセプトは「藤田の家に呼ばれた気持ちになれるように」。藤田夫婦が過ごした時そのままに家具や生活用品がディスプレイされている。

 そして建物の隣には芝生の庭を挟んで貴重な資料を管理し展示も行うギャラリーがあり、そこでは藤田の手による礼拝堂やアトリエ、住居の模型、おもちゃ、絵の描かれた箱など、販売や発表目的ではない純粋な喜びに溢れた造形物にも出合うことができた。

君代夫人が最晩年まで手放さなかった作品のうちの1枚とのこと。《朝の買物》1962年油彩
藤田展1朝の買物


『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』2:戦中や戦後の藤田
『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』1:君代

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック