『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』2

<『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』2>
図書館で『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』という雑誌を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくると・・・
藤田の作品はもちろん秘蔵の手紙や日記、写真など満載で、ええでぇ♪


【藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)】


雑誌、新潮社、2018年刊

<商品の説明>より
◆特集◆藤田嗣治と5人の妻(おんな)たち
フジタの絵は、妻が替わるたびに変容を遂げた。
妻たちとの関係、そして秘蔵の手紙や日記、写真などから、名画誕生の秘密を探る。

●妻たちを通して振り返る画家の軌跡
1.とみ 真夏の恋で結ばれた、同い年の才媛
2.フェルナンド フランスへの同化を誘った女流画家
3.ユキ 絶頂期を共にした“トロフィー・ワイフ"
4.マドレーヌ 中南米遊歴の果て、日本に散った薄幸のミューズ
5.君代 花も嵐も踏み越えて添い遂げた、最後の妻

●奈良美智がカメラでたどるフジタの愛した場所

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると・・・
藤田の作品はもちろん秘蔵の手紙や日記、写真など満載で、ええでぇ♪


amazon藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)

哈爾哈河畔之戦闘


戦中や戦後の藤田を、見てみましょう。
p49~51
<5.君代 >
 1940年にパリから戻った藤田は、トレードマークのおかっぱ姿を返上し、戦争画にのめり込み始めました。そのひとつのきっかけとなった作品が、《哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘》[上]です。
 いわゆる「ノモンハン事件」の責任をとって退役した元陸軍中将の依頼を受けて制作されました。藤田は現地にも取材し、軍装などの細かな指示を受けて、熱心に取り組みました。この作品は、後に軍に献納され、公式の戦争画「作戦記録画」となりました。

 そして数ある藤田の作戦記録画の中でも、異例の作品が《アッツ島玉砕》です。1943年、アッツ島の日本兵がほぼ全滅した死闘を描いています。美術界にとって初めての「玉砕図」は藤田によって描かれましたが、それは誰に依頼されたわけでもなく、本人が自発的に制作したものです(後に軍へ献納)。

 この作品が展示されると、思わず手を合わせて拝み、賽銭を投げる人までいたようです。藤田が追求してきた「大画面の群像表現」と「公共性」は、こうして戦争画に結実していくことになりました。

 終戦直後、藤田は手元にあった戦争にまつわる資料を焼却したと言われています。と同時に、GHQの委嘱で、戦争関連作品の収集に協力します。そんな中、1946年に結成された日本美術会は、独自の戦犯リストを公表し、藤田を非難しました。一方で、47年2月にGHQが公表した戦犯リストには、藤田の名前はありませんでした。

 藤田は20世紀前半にあれだけの国際経験がありながら、まったく共産主義に関心を示さなかった、不思議な人です。約60年、制作を続けましたが、スランプという時期がほぼなく、戦後も叩かれながらもしぶとく描き続けました。周囲には反省がないと映ったかもしれません。

 藤田は、頭でじっくりと考えてから描くのではなく、まずは手が先に動いてしまうタイプの画家でした。バッシングを受けたのは、作戦記録画の制作だけが理由ではないはずです。むしろ戦後のふるまい・・・GHQとの距離の近さが節操のなさと映ったのかもしれません。

 藤田が戦後初めて展覧会に出した作品は、《私の夢》でした。描く対象はふたたび西欧人になりました。彼は日本を離れる決意を固めます。1949年3月10日、日本を出国、まずアメリカへ向かいました。戦後の20年間、藤田の公式な発言は限られます。戦前はあれだけ多くの原稿を書き、本も出していたのに、沈黙してしまったのです。
(中略)

 ニューヨークでの10ヶ月で、藤田は旺盛に絵を描き、個展も開催しました。エコール・ド・パリ時代に戻ったようなスタイルで、滑らかな白い下地と墨の線描は大きな評判を呼び、フランス行きの軍資金も稼ぎました。そして翌年初め、フランスへの渡航許可が下りると、2人はすぐにパリへ向かいます。


『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』1

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