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zoom RSS 『村上春樹のなかの中国』1

<<   作成日時 : 2019/02/24 14:15   >>

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<『村上春樹のなかの中国』1>
図書館で『村上春樹のなかの中国』という本を借りたのです。
帰って読み始めると、著者が中国文学研究者であり、中国文学への深い知識に圧倒されるわけで、ちょっと当てがはずれたわけですが・・・
ま、いいかと読み進めます。



【村上春樹のなかの中国】


藤井省三著、朝日新聞出版、2007年刊

<「BOOK」データベース>より
村上春樹は中国から深い影響を受けている。「中国行きのスロウ・ボート」『ねじまき鳥クロニクル』『アフターダーク』など作品中で中国を「記号」として登場させている。一方、中国語圏では台湾、香港、上海、北京と、時計回りに村上春樹現象が出現した。「すっごくムラカミ(非常村上)」という流行語が生まれ、村上作品から影響を受けた「村上チルドレン」が多く輩出され、東アジアに与えた文化的な影響は大きい。近代文学において大きなテーマであった「中国」を村上春樹はどのように描いているのだろうか。また村上受容から見えてくる東アジアの姿とはいかなるものだろうか。魯迅からウォン・カーウァイまで「村上春樹」を軸に中国文学研究者が、東アジアの文化と社会を探る。

<読む前の大使寸評>
帰って読み始めると、著者が中国文学研究者であり、中国文学への深い知識に圧倒されるわけで、ちょっと当てがはずれたわけですが・・・
ま、いいかと読み進めます。

rakuten村上春樹のなかの中国



まず、「中国行きのスロウ・ボート」について、見てみましょう。
p34〜47
<魯迅「藤野先生」と「中国行きのスロウ・ボート」>
 10代の村上春樹が愛読していた河出書房『世界文学全集』の魯迅の巻には、日本留学時代の恩師を回想した作品「藤野先生」(1926)が収録されている。1902年に東京へやってきた魯迅が見たものは、弁髪を頭上高くグルグル巻にして学帽を載せ上野公園でお花見をしたり、留学生会館の洋間でドスンドスンとダンスの講習を受ける「清国留学生」たちで、魯迅はこんな東京に見切りをつけて中国人のいない仙台の医学専門学校を志望したという。

 仙台医専では変人で知られる解剖学教授の藤野源九郎から毎週ノートを赤ペンで訂正するという懇切な指導を受けたおかげで、魯迅は百余名中、中ほどの成績で落第することなく二年生へと進級できたが、ノート添削の際に藤野先生が出題箇所に印をつけていたというう試験問題漏洩の噂が広がり、「なんじ悔い改めよ」という匿名の手紙が届く始末であった。それでも魯迅が先生に報告するいっぽう、友人の級友たちも抗議したのでこの噂も立ち消えとなった。

 続けて幻灯事件が起きる。当時医学校では講義用に幻灯写真を用いていたが、授業時間が余ったときなどは日露戦争の「時局幻灯」を映して学生に見せていた。そのような教室である日魯迅は、ロシア軍スパイを働いた中国人が中国人観衆の見守る中で日本軍兵士によって首を切られる場面に遭遇したという。

 処刑される者も見守る者も、魯迅の同胞たちはすべて体格は屈強だが顔つきはうすぼんやりとしていた。魯迅は「藤野先生」では一言「考えは変わったのだ」と述べているだけだが、彼の第一作品集『吶喊』の「自序」の言葉で補えば、「具弱な国民」はたとえ屈強な体格であってもせいぜい見せしめの材料かその観客ぐらいにしかなれぬ、まず彼らの精神を改革うべきでありそのためには文学芸術を選ぶべきだと考えた、という。

 こうして魯迅が二年を終えて藤野先生に医学の勉強をやめたいと申し出ると、先生は無言のまま悲しそうな顔を見せて、裏に「惜別」と記した自分の肖像写真を与え、魯迅にも写真をくれないかと頼んだが・・・。

 恩師藤野先生との出会いと別れ、そして医学から文学への転向をつづった感動的な作品である。別離からおよそ30年後の1934年に増田渉が岩波文庫『魯迅選集』の収録作品について意向を聞いたとき、魯迅は「藤野先生」だけはぜひ入れて欲しいと希望した。それは文庫版刊行によって先生の消息が分かることを期待してのことだった。
(中略)

 遠隔地の学校で異国の先生に出会い、先生の期待、希望を裏切ってしまう生徒の回想・・・こんな「藤野先生」のような小説を実は村上春樹も書いているのだ。短篇「中国行きのスロウ・ボート」(以下「中国行き・・・」と略す)がそれである。
(中略)

 村上春樹が1980年の初出誌から1990年の全作品版に至るまでの10年間に「中国行き・・・」に二度の改稿を施して得た結論が、「僕にしか読み取れない」「あまりに遠い」中国であった。それは「僕」が「過去」を友とし、背信と原罪とをより深く自覚することにより到達した、旅立ちのための港であったのだ「中国行き・・・」は初出誌・単行本両版では次のように結ばれていた。

 それでも僕はかつての忠実な外野手としてささやかな誇りをトランクの底につめ、港の石段に腰を下ろし、空白の水平線上にいつか姿を現わすかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。そして中国の街の光輝く屋根を想い、その緑なす草原を想おう。
 だからもう何も恐れるまい。クリーン・アップが内角のシュートを恐れぬように、革命家が絞首台を恐れぬように。もしそれが本当にかなうものなら・・・
 友よ
 友よ、中国はあまりに遠い。


 そして全作品版に至ると、「だからもう何も恐れるまい」の一句は次のように加筆された。

 だから喪失と崩壊のあとに来るものがたとえ何であれ、僕はもうそれを恐れまい。

『風』の主人公「僕」が夏休みの帰省を終え東京の大学へ戻る時、ジェイズ・バーのバーテン、ジェイに別れを告げに行くと、この中年の中国人は望郷の思いをこんな風に語っていた・・・何年か経ったら一度中国に帰ってみたいね。一度も行ったことはないけどね。・・・港に行って船を見る度にそう思うよ。

 朝鮮戦争からベトナム戦争に至るまで、中国共産党政権と敵対するアメリカの在日軍事基地で働いていたジェイは、『風』の時代の1970年に中国に戻れば正真正銘の「反革命分子」となったことだろう。

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