日本の家

<『日本の家』1>
図書館で『日本の家』という大型本を手にしたのです。
ぱらぱらとめくると、丹下謙三自邸、レーモンド自邸、赤瀬川原平のニラハウス、安藤忠雄の住吉の長屋など、めぼしい家屋はすべて網羅しているのが、すごい♪



【日本の家】


新建築住宅特集別冊、新建築社、2017年刊

<「BOOK」データベース>より
日本の戦後の住宅を取り上げる展覧会として過去最大規模となる東京国立近代美術館で開催される展覧会に会わせて出版。56組の日本の建築家による75の住宅を、テーマごと系譜学として構成。500を超える豊富な写真・図版を掲載。

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、丹下謙三自邸、レーモンド自邸、赤瀬川原平のニラハウス、安藤忠雄の住吉の長屋など、めぼしい家屋はすべて網羅しているのが、すごい♪

amazon日本の家

レーモンド自邸

冒頭の「日本的なるもの」を見てみましょう。
p14
<日本的なるもの:塚本由晴>
 日本的なるものをめぐる建築表現や言説は、伝統についての様々な議論を生んできた。特に1952年のサンフランシスコ平和条約締結による、国家としての主権回復は、敗戦の痛手から立ち上がろうとする人々の自尊心、愛国心をどれだけ刺激しただろう。建築家、批評家、歴史家を巻き込んで、伝統論争と呼ばれる議論が1955年頃より沸き起こった。

 日本の伝統をどの建築の系譜を軸に捉えるかをめぐり、寝殿造りのような高床式の開放的な空間の系譜か、民家のような土間が骨太な柱梁と大きな屋根で覆われた空間の系譜かが争われた。

 中でも丹下謙三や川添登が、《桂離宮》を参照して縄文と弥生の弁証法的統合により日本の伝統を位置づけた。しかし、丹下の初期創作は、弥生的な高床式の再解釈と見なせるものに明らかに傾いていた。そこに白井セイ一が《旧江川邸》の土間を引き、縄文の竪穴式住居の系譜に位置付けることで、民衆の力強さを伝統解釈の主役に据えた。

 高床は稲作が導入された弥生時代に、穀物を保存するために生れた形式で、貴族の寝殿造りに引き継がれていると言われる。近代建築の透明性や内外浸透を志向する空間と親和性が高い。これに対して土間は、狩猟社会であった縄文時代の竪穴式住居という、さらに古層の空間形式で、民家や町家に引き継がれていると言われる。土壁で守られ、火を使うので黒くすすけており、庶民の暮らしとともにある実践的空間である。

 このふたつの対比により、日本的な空間は、近代建築理論を先取りするものと見る可能性と、大陸伝来の稲作農耕以前に起源をたどる可能性の間で揺れることになった。西洋由来の近代建築との統合か、西洋を経由しない独自の起源への同一化か?日本的なるものの伝統解釈の違いには、西洋との距離のとり方が投影されているのである。

 少し後になって篠原一男が「日本伝統論」(1960年)で住宅の空間に引き寄せて論じたような、伝統と住まいと暮らしの全的な関係が論じられることはなかった。

 だが同時代に設計された住宅の実践にも、暮らしにまで踏み込んだ。日本的な住まいのあり方への問いが見られる。

 第二次大戦後にアメリカから日本に戻ったアントニン・レーモンドの《レーモンド自邸》(1951年)は、中庭を挟んで設計事務所が隣接する職住接近の住まいである。戦後間もない材料不足の中で杉丸太の足場材利用したシザーストラスは、日本建築との強い結びつきから木構造を解放し、その新たな可能性を開いた。床は庭とほぼ同じ高さに設定されているが、これは民家の土間とは異なる。光を受けた連窓の障子を背景に並ぶ、重心の低い木製家具と合わせて、土足での生活を想定したものだろう。
(中略)
 水平性が強調された木造平屋は十分に日本的だが、そこに配合された地中海的なふるまいの想定が、床と庭の関係を変え、縁側をロッジアに変えたと見ることができる。そうした意味で、《レーモンド自邸》は、民族誌や文化人類学的関心が建築のデザインに投影された優れた事例であるが、そこには最初に述べた寝殿造りか民家かといった系譜をめぐる問いはない。それは日本人建築家の間に限られた問題意識だったのだろう。


ウン 縁側や土間の開放感が好きだったと思い返しているのです。

この本も主体的な住居とはに収めるものとします。

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