『本の森 翻訳の泉』1

<『本の森 翻訳の泉』1>
図書館で『本の森 翻訳の泉』という本を手にしたのです。
ぱらぱらとめくると、取り上げている作家が多和田葉子、村上春樹、水村美苗、池澤夏樹と好きな作家が多いのが借りる決め手となりました。


【本の森 翻訳の泉】


鴻巣友季子著、作品社、2013年刊

<「BOOK」データベース>より
角田光代、江國香織、多和田葉子、村上春樹、朝吹真理子ー錯綜たる日本文学の森に分け入り、ブロンテ、デュ・モーリア、ポー、ウルフー翻訳という豊潤な泉から言葉を汲み出し、日本語の変容、文学の可能性へと鋭く迫る、最新評論集!

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、取り上げている作家が多和田葉子、村上春樹、水村美苗、池澤夏樹と好きな作家が多いのが借りる決め手となりました。

rakuten本の森 翻訳の泉



『日本語が滅びるとき』というセンセーショナルなタイトルの本を著した水村美苗さんとの対談を見てみましょう。
p295~298
<対談 日本語は滅びるのか>
『日本語が滅びるとき』という刺激的なタイトルの評論を発表した水村美苗氏は、全世界的に権威を振るう世紀に入ったからこそ、日本語をとりまく状況に危機感を募らせる。
 なぜ、英語はこれほどまでに流通したのか。日本語の特異性とは?
 自国の言語を護るために今、必要なこととは?

鴻巣:『日本語が滅びるとき 英語の世紀の中で』を読みまして、翻訳家の身としてさまざまなことを考えさせられました。まず、タイトルが非常に刺激的です。日本語が「堕落」しているとか、閉塞状況にあるというようなことは感じていても、「滅びる」というところまで意識が及んでいる人は学者にしろ作者にしろさほどいないと思います。

水村:確かに作家はほとんど考えていないでしょうね。ただ学者のなかには、分野によって、そういう危機感をもった方がかなりいると思います。「滅びる」といっても、人々が真剣に読み書きしなくなるという意味ですが。

鴻巣:なるほど書き言葉としての危機ですね。本書の冒頭で、米国のアイオワで参加なさった国際創作プログラムのことを書かれています。「人はなんと色んなところで書いているのだろう・・・」と。

 <自分たちの言葉>で書いている人々が世界各国にいて、それを水村さんは「各国語の何物にも代えがたい物質性と特異性」というふうに表現しています。また、非英語作家が大勢集まっているさまを「ユーラシア大陸の歴史を乗せて」走るバスのようであったとおっしゃっていますね。

水村:あのプログラムに参加して感じたのですが、あのとき集まった集団ほど英語ができない人たちは、アメリカの大学では見たことがありません(笑)。学問の世界で起こっていることと、創作の現場との間には大きな差があるのを、ひしひしと感じました。そして、それが文学にどういう意味をもつかと考え始めたんです。

 数式が主な数学や自然科学では、重要な論文は英語で読み書きするのが当然とされていますが、それ以外の分野でも、学問の言葉としては、英語が圧倒的にのしてきています。極端な場合には、文学においても、非英語圏の作品というのはオブジェクトレベルにあり、メタレベルの、その文学に関する言説は英語に移りつつあったりします。

■今世紀末までに8割以上の言語が消える?
鴻巣:本書では、言葉には序列があるということで、言語の歴史を繙きながら三つのレベルに分けています。まず<普遍語>があって、次に国民国家誕生と相前後して生まれる<国語>がある。そして、その下に、<現地語>という、国民国家以前の大昔から話されていた、<書き言葉>を特にもたない言語がある、と。これらの定義は本書のキーワードにもなっていますね。

水村:そもそも<書き言葉>というのは、<世界語>だったと思うんですね、つまり、<書き言葉>を独自に生み出すというのは、人類の歴史のなかで極めて稀にしかおこらない。

 <書き言葉>とは、それをもつ文明から近隣の地域に伝播し、そして各々の地域の人が読み書きするというものだったと思うんです。ですから、かつては<世界語>と<話し言葉>しかなくって当然だった。西洋の吟遊詩人などは<話し言葉>である<現地語>で唄っていたわけだし、中世の芝居などもそう。一方、学問や宗教といった、思考する言語としては<世界語>が使われていた。

鴻巣:<世界語>=<普遍語>ということですね。それは古くはギリシャ語から、ラテン語やアラビア語であった時代もあるし、サンスクリット語、パーリ語、漢語などの言語もそうですね。そして<普遍語>を現地の言葉に翻訳する過程で<国語>ができた。

 つまり<国語>の成立には<二重言語者>による翻訳という行為が欠かせなかったという言語の成立事情を、紙幅を割いて強調されていますね。

水村:その通りです。

鴻巣:たとえば明治期、二葉亭四迷の『浮雲』をはじめとする言文一致という文体は、翻訳を通して作られたと考えられていますが、水村さんはもう一歩も二歩も踏み込んで、その近代日本語は<翻訳語>そのものであるという書き方をされています。さらに言えば<国語>のは多くの場合、<翻訳語>なのだと。わたしはそこまで考える勇気はなかったような気がするんですね。

 そこまで考え詰めると、文字を書いている人間にとってはひたひたと危機感が迫るような部分もありますし、今まで一文化のアイデンティティだと思っていたものが根底から揺らいできます。

 じつは翻訳学の世界では1980年代から、柳父章氏が「翻訳語としての日本語」の観点から鋭い論考を数々発表してきたのですが、一般読者にまで注目されることはありませんでした。翻訳者でさえ(であるがゆえ)その問題は怖くて直視できずにいました。『日本語が滅びるとき』でようやく目を向けた人は多いと思います。

水村:翻訳という行為は、その重要性が、歴史のなかで無視され過ぎていたと思うんです。ことに「書く主体」が特権化された近代において。

 ウン 水村さんの『日本語が滅びるとき』を通して翻訳の重要性を語る鴻巣さんの鋭い指摘(翻訳学について)が、ええでぇ。

この本も通訳、翻訳についてに収めておくものとします。


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