『文明に抗した弥生の人びと』1

<『文明に抗した弥生の人びと』1>
図書館に予約していた『文明に抗した弥生の人びと』を、待つこと3日の超速でゲットしたのです。
大使の関心は、辺境ニッポンの長い縄文時代と、文明に抗した縄文人、弥生人とはいかなる者か?・・・に向かうわけでおます。



【文明に抗した弥生の人びと】


寺前直人著、吉川弘文館、2017年刊

<「BOOK」データベース>より
水田農耕や金属器などの新文化を、列島の在来社会はどう受け止めたのか。縄文の伝統をひく土偶や石棒など儀礼品や、打製石器に着目し、文明に抗う人びとを描く。大陸文明の受容だけでは説明できない弥生の実像に迫る。

<読む前の大使寸評>
大使の関心は、辺境ニッポンの長い縄文時代と、文明に抗した縄文人、弥生人とはいかなる者か?・・・に向かうわけでおます。

<図書館予約:(2/10予約、2/13受取)>

rakuten文明に抗した弥生の人びと


まず、縄文時代、縄文人について、見てみましょう。
p36~39
<縄文時代とは?>
■縄文時代像をめぐって
 狩りにあけくれる不安定なその日暮らしを送っていた時代。縄文時代をこのようにイメージする人は、いまや少数派だろう。各地における発掘調査の進展の結果、自然と共存しつつ繁栄したエコで豊かな縄文時代像が喧伝されて久しい。

 しかし、縄文時代にふくめるかについて議論のある草創期をふくめると、縄文時代はゆうに1万年をこえる長期間である。実に弥生時代の10倍以上、江戸時代の40倍以上の時間だ。この間、いくどかの温暖化と寒冷化が生じ、それに呼応して、日本列島各地で人びとの暮らしが、各地で発展と衰退を繰り返した時代でもある。

 その意味において、単独の「文化」が長期間にわたり続いたというよりも、農耕に適するはずの温暖湿潤気候帯において、例外的に長期にわたって狩猟と採集を主とする食糧獲得システムが、盛衰を繰り返しつつ継続したという点を重視すべきであると、私は考える。

 縄文時代の諸文化を、あえて一つにまとめて表現するならば、それは更新世から定新世の変化、すなわち氷河期の終わりにおきた中緯度地域の自然環境と生態の変動に適応するために、日本列島の人びとがうみだした技術体系の総称といてであろう。

 俊敏なシカやイノシシをしとめることができる弓矢、煮沸という調理法法の導入によって食材加工の幅を広げた土器、あるいは釣り針や網漁にもちいられた石錐などの多彩な漁撈具の登場。これら新しい道具によって、かれらが利用できる資源の範囲は拡大し、環境とマッチした地域では定住的な生活を営むようになる。

 しかし、縄文時代の最初に土器や弓矢といったイノベーションがおこって以降は、人口の増加や生活の豊かさに直結するような実用品の発明や食糧獲得・生産における革新は、時代をとおして、あまり顕著ではない。

■繁栄と衰退
 しかしながら、縄文時代中期までの温暖化は、日本列島に住んでいた人びとのなかでも東日本の人びとに、豊かなめぐみをもたらす自然環境を与えた。日本列島の温暖湿潤気候は、季節ごとにさまざまな食料資源をはぐくむ。また、海水面の上昇は複雑な海岸線をうみだした。そこは淡水と海水が混じる格好の漁場となり、海辺は貝の採集場所となった。
 さらに東日本ではブナやナラ、クリ、クルミなどを主とする落葉広葉樹林が、西日本ではカシ、シイ、クスなどの照葉樹林が広がり、とくに前者の森は豊富で手軽に利用しやすいナッツ類を人びとにもたらした。かれらは、このようにめぐまれた自然環境のもと、青森県の三内丸山遺跡に代表されるような巨大で継続的な集落を営むようになったのである。しかし、限られた技術で自然の産物を最大限利用する生活は、自然のちょっとした変化にも大きく左右されてしまう。

■縄文時代後期の変化
 その変化の一つが縄文時代後期における変化である。縄文時代中期末になると、それまで発達していた巨大な環状集落がすたれてしまい、数棟の住居からなる小さな集落にわかれて暮らすようになることがしられている。とくに関東内陸部と中部高地では、遺跡数や住居数が激減してしまうことから、人口が減少したと考えられる。

 ただし、房総半島の東京湾に面した沿岸部では、加曾利貝塚をはじめてとする大きな貝塚遺跡が引き続きいとなまれている。また、埼玉県から栃木県南部にかけての地域では、環状盛土遺構をもつ集落があらたに形成されている。全体が衰退したというよりは、居住空間の選択が変化したというのが実情かもしれない。

 このような変化がおきた原因として考えられるのが、気候の寒冷化である。温暖化のピークを縄文時代前期にむかえた後、気候はふたたび寒冷化にむかう。また、この頃に海岸線が後退していく現象がおきて、地形が変化する。これらの環境変化は植生に変化をもたらし、とくに東日本の内陸部に住む人びとの暮らしに影響を与えたようだ。

 一方で、クリなどの大きく栄養豊富なナッツ類をもたらす落葉広葉樹林が西日本にも広がりはじめる。これに呼応するかのように、今まで目立った規模の集落がみられなかった西日本にも、比較的大きな集落が見られるようになり、人びとが定住的な暮らしをするようになったことがわかっている。


縄文人と弥生人の関係については、森林の取り持つ縁があったようです

藤森隆郎著『林業がつくる日本の森林』より
 日本人の祖先である縄文人は、森林・草地での狩猟・採集と川や海での漁労の生活をしながら自然崇拝の文化を築いてきた。またすでに森林の中でクリの植栽をしていたともいわれている。3世紀頃に稲作技術を携えて侵入してきた先進的な弥生人が、縄文人を駆逐しなかったのは、日本の圧倒的な森林の力に対応するために、縄文人の力と文化を必用としたからだと考えられている。

 水稲栽培に必用な安定的な水の供給には、縄文人の森林活用の知恵が必要だったのだ。


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