佐々木マキの世界(その5)

<佐々木マキの世界(その5)>
『ノー・シューズ』という本を図書館で借りて読んだのだが・・・
佐々木さんが生まれ育った神戸・新長田といえば、ドングリ国の縄張りであるが・・・
神戸にはニューカマーの大使が知らない昔のお話が、興味深いのです。

 この際、佐々木マキの世界としていろいろ集めてみました。

・『漫画のすごい思想』
・『対話録・現代マンガ悲歌』
・ガロ曼陀羅
・ノー・シューズ
・うみべのまち
・佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人
・佐々木マキ 見本帖


絵1

(『漫画のすごい思想』を追記したので(その5)としました)



<『漫画のすごい思想』>
図書館で『漫画のすごい思想』という本を手にしたのです。
ぱらぱらとめくってみると、四方田さんが取り上げた漫画作家が大使の好みに近いわけで・・・またしても「先を超されたか」との思いがしたのです。



【漫画のすごい思想】


四方田犬彦著、潮出版社、2017年刊

<「BOOK」データベース>より
政治の季節からバブル崩壊まで、漫画は私たちに何を訴えてきたのか。つげ義春、赤瀬川原平、永井豪、バロン吉元、ますむらひろし、大島弓子、岡崎京子…すべては1968年に始まった!

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくってみると、四方田さんが取り上げた漫画作家が大使の好みに近いわけで・・・またしても「先を超されたか」との思いがしたのです。

rakuten漫画のすごい思想


『漫画のすごい思想』1:佐々木マキについて



<『対話録・現代マンガ悲歌』>
図書館に借出し予約していた『対話録・現代マンガ悲歌』という本を手にしたが・・・

この本は、ページをめくる際にそれぞれ引っかかりがあるわけで、神戸市では私が最初の読者のようである。
今まで図書館に死蔵されていたわけだが…
やっと日の目をみたわけかと、感慨深いものがあるのだ(笑)


【対話録・現代マンガ悲歌】
マンガ

対談集、青林堂、1970年刊

<「BOOK」データベース>より
古書につき、データなし

<読む前の大使寸評>
つげ義春、佐々木マキがでているのが、借りる決め手でんがな♪

この本は、ページをめくる際にそれぞれ引っかかりがあるわけで、神戸市では私が最初の読者のようである。
今まで図書館に死蔵されていたわけだが…
やっと日の目をみたわけかと、感慨深いものがあるのだ(笑)

<図書館予約:(12/22予約、1/06受取)>

Amazon対話録・現代マンガ悲歌
対話録・現代マンガ悲歌byドングリ


この本で、若き日の赤瀬川さんと佐々木さんを見て見ましょう。

赤瀬川原平:画家。昭和12年横浜生まれ。41年模型千円札で起訴、45年に有罪確定。
原平

佐々木マキ(本名=長谷川俊彦):昭和21年神戸生まれ。41年「よくあるはなし」を『ガロ』に発表。44年6月より『朝日ジャーナル』に連載マンガ等。
佐々木



<ガロ曼陀羅>
図書館で『ガロ曼陀羅』という本を手にしたが・・・
おお コレだ♪ この本だ♪

この種の本を見つけるには、図書館で手当たり次第に探すしかないような気がするのです。

そうそうたる著名人が、ガロについて語っているが、個人的に気になる人の分を紹介します。
まず、佐々木マキさんから

<フィクサーながい:佐々木マキ>よりp26~27
 ぼくのマンガが初めて『ガロ』に載ったのは1966年、ぼくが20歳の頃だから、もう四半世紀も前のことになる。自分の描いたものが印刷されるというのは、何とも実に快感です。すっかりおもしろくなって、せっせとマンガを描いては『ガロ』に投稿していた。

 その翌年、二度も落ちているので、もうどうでもいいや、という気持ちで受験した美術大学に、三度目で合格してしまった。ところが、おもしろくないんだね、その学校。
 ぼくはハタチのオトナだけど、まわりは18かそこらのお嬢ちゃん、お坊っちゃんばかりで、ウォーホールも、ジャスパー・ジョーンズも知らない、何だろ、こいつらと思いました。

 金もなかったしね。看板描きや家庭教師のアルバイトやって、その合間にマンガを描く。ガッコへ行ってる暇なんてなかった。
 まあ、それで、学費滞納・出席不良・マンガを描いている―という理由で、2年生で抹籍処分にされたんですけど。

 学校は放り出されるし、すでに同棲している女性はいるしで、こいつは何とかしなくちゃと思って、長井さんに、とにかく上京したいんですけど、と打診したところ、いいとも、出ておいでよ、という返事で、おまけに長井さんは、ぼくのために『朝日ジャーナル』連載の話までまとめてくれた。

 半分しろうとが、いきなり週刊誌の連載だからね、苦しかった。バルザックの小説に「人生には1年生の行く教室なんてないのよ。誰だって最初からいちばん難しいことをやらされるんだわ」という科白があったと思うけど、まさにそれだった。

 でもいい経験になった。それ以後、いくらしんどい条件の仕事が来ても、あの時の苦しさを考えたら、こんなの物の数じゃないと思って、何とか切り抜けられるもの。

 あれは1970年の秋だったかな、岡山大学の学園祭に『ガロ』御一同様として招かれたことがある。長井さん、上野昴志さん、勝又進さん、林静一さんたちと一緒に岡山へ行った。行ったけれども、講演するわけでも、何かをやってみせるわけでもない、ひたすら飲んで騒ぐだけという結構な御招待だった。

 その帰路、京都に立ち寄って、長井さんに連れられて行った所というのが、ぼくが美大で教わった秋野不矩先生の御子息のお宅だった。それが縁となって、のちに秋野先生の紹介で、ぼくは福音館から絵本を出すことになる。本当に、どこでどうなるのか判らないね。

 こう振り返ってみると、初めて『ガロ』に投稿した時、おもしろいので続けて描くように励ましてくれたのを含めて、長井さんは、ぼくの重大な転機に、三度大きく絡んでることがよく判る。ぼくが長井さんをひそかにフィクサーと呼ぶ所以です。


次に四方田犬彦の佐々木マキ論みたいなものを紹介します。

<『ガロ』の最初にして最年少読者の自画像:四方田犬彦>より244~246
 おそらく長井さんの方でも、12歳の子供が千円札を手に、こんな生意気な口をききながらやって来るとは、予想されていなかったと思います。お金を払って1冊ほどのバックナンバーを包んでもらっていると、ほら、これが今日出たばかりの新しい号だから、1冊おまけだよといわれ、白地に青の表紙の『水木しげる特集号』をタダでもらってしまいました。

 帰りの神保町の交差点はもうすっかり暗くなっていました。渋谷行きの都電が来ず、ひどく心細い気持ちでした。都電のターミナル駅だったのでいろいろな系統の電車が通過するのですが、なかなかお目当てに出合わないわけです。ようやく乗った電車の薄暗い車輌のなかで、ぼくは手にした紙包みを破いて、『ガロ』を読みはじめました。下馬町の家に戻るまでとうてい待ちきれなかったのです。その結果、包みはボロボロに破れ、12冊の本をほとんど抱えるようにしてぼくは帰宅しました。 

(中略)
 68年だったと思いますが、佐々木マキと林静一があいついでデビュウしました。年齢的にははるかに年少だったのですが、これはぼくが最初に同時代のアート、というよりアートの同時代性を自覚した瞬間だったと思います。「アグマと息子と食えない魂」という林静一の処女作を読んで、木版画のような線の太さとブラックユーモアの寓話に強い印象を受けました。それが次の「巨大な魚」では細い線に変り、因襲に満ちた田舎町での人間の業という主題に挑むわけで、ぼくはしばらく彼の一挙一動に振り舞わされっぱなしでした。

 佐々木マキはというと、当時は難解だという評が圧倒的だったと思います。60年代とはまだ人々が物事の深層に隠れ潜んでいる意味とやらの探求に多忙であり、難解であることが価値の微であった時代でした。もっとも佐々木マキ本人としては、解釈すべき晦渋な意味など何もない、ある種のニヒリスティックなノンサンスが主眼であったわけです。

 このノンサンスは時代の雰囲気でもあったわけですが、文学言語が到達するまでには70年代を待たなければならなかったと思いますね。エドワード・リアとかルイス・キャロルがそれなりに紹介され、読まれるようになったとき、はじめて人は佐々木マキの正しさが理解できたわけです。

 ぼくが書いた文章でもっとも最初に活字になったのは、何を隠そう、68年の『ガロ』に投稿した佐々木マキ論です。どうしてだか忘れてしまいましたが、矢野武徳という筆名を用いました。状況は逼迫している、もはや躊躇は許されない、というまるでアジビラみたいな口調のものです。今回のために久しぶりに読み直してみましたが、16歳の自分がいったい何を書いていたのか、今では文意が掴めなくなっていました。




【ガロ曼陀羅】
ガロ

『ガロ』史編纂委員会編、PHP研究所、1991年刊

<「BOOK」データベース>より
創刊号(1964年9月)から318号(1991年6月)までの全表紙をカラー写真で収録。『ガロ』掲載全作品を作家別に網羅。約30年におよぶ『ガロ』の歴史と変遷。まるごとオリジナル書き下ろし。
【目次】
第1章 モーゼルの勝ちゃん/第2章 『ガロ』白書/第3章 カムイたちの贈り物/第4章 異色作家の殿堂/第5章 広がる表現形態/第6章 憧れの『ガロ』/第7章 『ガロ』という名の登竜門/第8章 エディトリアル・アドベンチャー/第9章 マンガ界の新陳代謝/第10章 面白主義以降のバラエティな面々/第11章 新時代の『ガロ』
<大使寸評>
この本が刊行された1991年には、長井勝一さんが青林堂会長として在籍していたようです。
それにしても・・・
そうそうたるアーティストの書き下ろしでこの本が成り立っているのは、『ガロ』が与えたインパクト、そして長井さんの人徳の成せるものなんでしょうね♪

ガロイストという言葉ができるほど、膨大な数のアーティストのリストがこの本の最終ページに載っています。
それから、この本の編者は『ガロ』史編纂委員会となっていることから、ガロイストの数の多さが知れるのではないか。

rakutenガロ曼陀羅


wikipediaガロ (雑誌)



<ノー・シューズ>
朝日新聞で佐々木さんの『ノー・シューズ』の紹介が載っていました。

記事


【ノー・シューズ】
佐々木

佐々木マキ著、亜紀書房、2014年刊

<「BOOK」データベースより>
マンガ家デビューから『やっぱりおおかみ』などの絵本創作の背景や『ガロ』で出会った人々との交流までを綴った書き下ろしエッセイ「ノー・シューズ」。神戸の下町で過ごした幼少期を描いたエッセイ「ぼくのスクラップ・スクリーン」。珠玉のエッセイと共に不思議な1コママンガの連作「スカラマンガ」も収録!

<読む前の大使寸評>
佐々木さんが生まれ育った神戸・新長田といえば、ドングリ国の縄張りであるが・・・
神戸にはニューカマーの大使が知らない昔のお話が、興味深いのです。

 それから、村上春樹との交流も興味深いですね。芦屋と神戸はお隣という関係からなんだろうか?

<図書館予約:(9/09予約、2/25受取>

rakutenノー・シューズ




<うみべのまち>
『うみべのまち』という本を図書館で借りて読んだのだが、ええでぇ♪


【うみべのまち】
佐々木

佐々木マキ著、太田出版、2011年刊

<「BOOK」データベース>より
漫画本のためか、データなし。

<読む前の大使寸評>
久々に、中央図書館まで遠出したところ、この本を見つけたのです。
手にとると重量感のあるハードカバー製本で、定価2850円なりの豪華さに感激した次第です。

この本では、吹き出し付きの作品と吹き出しなしの作品が収められているけど、どちらもええわけです。
モノクロの絵を見ているだけでも鑑賞にたえられるわけで…
線描画の達人と言うべきなんでしょうね♪

rakutenうみべのまち




<佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人>
『佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人』という本を図書館に借出し予約しているので、もうすぐ見られます♪


【佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人】
佐々木

佐々木マキ著、 河出書房新社、2013年刊

<「BOOK」データベース>より
あるときはアヴァンギャルドなマンガ家。またあるときはキュートな絵本作家。そしてまたあるときはクールなイラストレーター…。はたして、その正体は!?作家のこれまでの軌跡を一望する、決定版「佐々木マキ入門」

<読む前の大使寸評>
追って記入

<図書館予約:(3/8予約済み)>

rakuten佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人




<佐々木マキ 見本帖>
吉祥寺美術館で開催された「佐々木マキ 見本帖」サイトより概要を紹介します。

ポスター


展覧会情報:佐々木マキ 見本帖より
 学生時代からマンガ家として注目され、雑誌「ガロ」や「朝日ジャーナル」などで独創的なマンガ作品を発表していた佐々木マキは、1973年に絵本『やっぱりおおかみ』(福音館書店)で絵本作家として衝撃的なデビューを遂げました。その後『ぼくがとぶ』(1975年 福音館書店/2013年 絵本館より復刊)、『ムッシュ・ムニエルをごしょうかいします』(1978年 福音館書店/2000年 絵本館より復刊)、『ねむいねむいねずみ』(1979年 PHP研究所)など数多くの絵本を発表し絵本作家として活躍する一方で、村上春樹らの小説の挿絵を描くなど、幅広い年代に親しまれてきました。2011年には初期のマンガを収録した作品集『うみべのまち 佐々木マキのマンガ1967-81』が太田出版より刊行され、前衛的・実験的と評された当時のマンガ作品に再び注目が集まっています。

 本展は「佐々木マキ見本帖」と題して、約45年間の多岐にわたる創作活動を振り返るもので、マンガや絵本の原画のほか、挿絵や装丁画、版画など貴重な作品約200点を前後期にわけて展示します。かつて「ガロ」を愛読していた世代から現在絵本に親しんでいる小さな子どもたちまで、佐々木マキのシュールでクールな不思議世界を多くの方々にお楽しみいただける絶好の機会となることでしょう。




『ノー・シューズ』の一部を紹介します。

佐々木さんが生まれ育った新長田を語っているが、その街は阪神淡路大震災で様変わりしています。
新長田は大使が通勤で通った街でもあり、大震災前の佇まいがなつかしいのです。

鉄人
今では、新長田といえば、鉄人28号の街となっています。


<まち>よりp111~113
 大阪から下り快速に乗る。尼崎、西宮を過ぎて、芦屋川を渡れば間もなく神戸市なのだが、六甲山の斜面に沿った屈託ない家並みを見ても、ぼくには何の関係もない。
 灘を過ぎ、脇浜の煙が見えて、三宮。そこから大小色とりどりのビル群が元町、神戸と続いて、急に殺風景な感じの兵庫で、各停に乗り換えて次の駅、新長田。

 ここが、ぼくが生まれて育った街だ。1950年代に戻ろう。大雑把に言うと、駅の北は煙突の林立する工業地帯、南はごちゃごちゃした商業地だった。ぼくの家は駅のずっと南にあった。
 家のすぐそばに六間道という商店街があった。いつも人通りが多く繁昌していたが、ことに年の瀬には買物客で、夏の宵にはそぞろ歩きの人でとても賑わった。

 井上靖の短篇に、この六間道でちょっとしたカオの目玉のお竜というズベ公が、やはり不良少女の主人公と長田神社で決闘するという話があったが、似たようなことは実際にあったかも知れない。やくざ者やチンピラも多かった。その小説を読んだ時、この作家は絹の道から六間道まで知っている、と感心したものだ。

 六間道には芝居小屋があった。近所に何となくぶらぶらしている若い衆がいて、よく連れて行ってくれた。夜遅く銭湯へ行くと、役者たちが舞台化粧のまま、ぞろぞろとはいってきたりした。この小屋はその後、舞台裏から浮浪者の白骨死体が出てきたため、げんが悪いと改装して、三本立ての映画館になった。昭和20年代の終わり頃のことだ。

 朝鮮人の多い街で、街中に朝鮮人はいたし、川の両側には貧しい朝鮮人の密集地域が幾つかあった。
 差別や確執は当然あったが、絵に描いたような単純な形ではない。朝鮮人の間にも―出身地の違いや、貧富による―感情的な対立や差別があったし、朝鮮人日本人ひっくるめての貧富の差別、住んでいる地域による差別もあって、世の中しんどい仕組みになっていた。

 また、小学校の塀に寄りかかるようにして並ぶバラック塀は、奄美大島出身者の居住地だったし、鹿児島県出身者ばかりが住んでいる路地もあった。彼らはそれぞれ、アマミ、カゴシマと呼ばれて特別視されていた。

 ぼくは朝鮮人の子供を避けなかったが、何もぼくに平等博愛の精神があったからではない。彼らを避けていたら、遊び友達の半分以上を失うことになるからだ。それに、実際彼らとは結構うまが合っていた。

 その代わりに(というのも変だが)ぼくは家の裏に越して来た鹿児島の子をいじめた。平等博愛の精神なんてなかったのだ。初めのうちはメンチャ(メンコ)やラムネ(ビー玉)をして仲良くやっているのだが、決まって途中から、ぼくがいびりだすのだ。聞き取りにくい言葉を喋る、鈍感で卑屈で、図々しい相手(と、その時は思った)にいらいらして、泣き出すまで容赦しなかった。悪いことをしたと思う。


マンガ雑誌「ガロ」との関わりが語られています。
当時の大使は、「ガロ」を見たかもしれないが、気に留めるほどではなかったのです。

<ガロ>よりp149~151
 「ガロ」という奇妙な名前のマンガ雑誌を、私が初めて手にしたのは1966年のことだった。創刊号から最新号までの20冊ほどを、まとめて誰かから借りたのだ。
 目当てはもちろん白土三平の『カムイ伝』である。私はそれより少し前に三洋社版の『忍者武芸帳』全巻を通読して、その迫力とおもしろさに圧倒されたばかりだった。
 毎号百ページ掲載の『カムイ伝』はなるほど凄かったが、残りのページに載っているさまざまなマンガが、これまた非常におもしろかった。

 水木しげるという人のマンガを初めて見たが、とぼけた不思議な味わいの作品を描く人だと思った。
 つげ義春の作品とも久し振りに対面した。貸本屋以来お目にかかっていなかったので。 滝田ゆうという人のマンガも初めて見たが、とても好きになった。独特の線描と、ギャグとオチ。うまい落語を聞くような気分。
 
 それにしても、この一見野暮ったくて貧乏くさい(そして、かなりいい加減な)「ガロ」という雑誌が、その時の私にはどんなに新鮮で魅力的に見えたことだろう。ちょうど、身なりやマナーにはまるで無頓着だが、とびっきり自由で風通しのよい精神を持った放浪児に出会ったように。

 私は毎月「ガロ」を買って読むようになったが、それだけでは飽き足らなくなり、その年の夏、短い風刺マンガを描いて投稿した。私の投稿は採用され、その年の11月号に掲載された。
 天にも登る気持ちとは、この時のことを言うのだろう。

 原稿料2千円のはいった現金封筒には、メモ用紙を破りとったような紙切れに、恐ろしく下手な字で「アナタノ漫画ハ面白イノデ コレカラモ送ッテ下サイ」と書かれたものが同封されていた。私はこれを書いた人が青林堂社長にして「ガロ」編集長の長井勝一氏とは夢にも思わず、なぜか<アルバイトのおじいさん>の書いたものと思い込んでいた。
 マンガを描くことに私が熱中し出したのは、それからである。人の運命はこんなふうにして狂っていく。


ガロ
それにしても赤瀬川原平といい、佐々木マキといい、『ガロ』には本当に異能の持ち主がいたんですね。
なお、佐々木マキの作品については「『ガロ』を見ずに過ごしてきた」に載せています。

佐々木さんの通学ルートは、大使の通勤ルートでもあったので懐かしいのです。
10年ほどの時間差はあるが、ニアミスしていたようです。

<うんが>よりp157~159
 ぼくが通っていた高校は兵庫運河の南にあった。通学のコースは幾つかあったが、吉田町回りの市電だけは厭だった。
 その市電は和田岬の三菱重工へ通う連中で満員で、おれたちは三菱で働いているんだぞ、そこら辺の吹けば飛ぶような町工場へ行ってるような連中とはわけが違うんだという意識が、彼らのちょっとした物言いや態度の端々に表れていて、たとえ15分でもこの連中に揉まれているのは、実に不快だった。貧しい俗物ども。
 いきおい松原回りの市電に乗ることになる。中ノ島で降りて橋を渡り、運河に沿って歩いて行く。
(中略)

版画1川西英「運河」

 運河の岸にはさまざまな倉庫や木材置場が並んでいる。冬は水の上を渡ってくる風が冷たい。
 スズメや時にはハトが、荷揚げの際にこぼれた穀類に群がっている。小さなクレーンが軋み、人夫たちが猫車を押している。
 洗濯物をかざしたダルマ船の上で犬が啼いている。水に浮かんだ夥しい木材の上を、長い柄の鳶口を手にした男が跳びはねている。木材を区別したり移動させたりの仕事だろうが、ここから見ていると、大の男が退屈しきって無意味な跳躍をしているとしか見えない。
 高校の周りも工場が多かった。屋上から、運河一帯そして兵庫駅のほうを眺めていると、どうでもいいや、という気分になった。何がどうでもいいのかその時も今も説明できないけれど。雨の日には油脂工場が臭い、乾いた日には肥料工場が臭った。
 
 ビートルズは強烈だった。もうずっと以前から心の中にあったものが、やっと突破孔を見出したような感じだった。見えなかったものが見えたようで、荒々しく優しい気持ちになれた。



<ディズニーのひ>よりp200~203
ピノキオ

 小学校の行事で最も愉しかったのは<ディズニーの日>だ。年に一度、近所の映画館を午前中だけ借り切って、子供たちがディズニーの映画を鑑賞するのである。ぼくの通っていた小学校だけの行事かも入れない。そうだとしたら先生たちはよくやってくれたものだと思う。

 何年生になったら何を観るというのが決まっていて、順番は忘れたが、例えば毎年1年生は『バンビ』、2年生は『白雪姫』、3年生は『ピノキオ』・・・という具合になっていた。
 学校から映画館へ堂々の分列行進をしていく時のわくわくした気分。近所の人たちが手を振ったり、小さい子供たちが何ごとだろう、と目を丸くして見ていた。

 いつも斬り合いや撃ち合いを観ているお馴染みの映画館で、その日は普段観られない特別なものが上映されるのである。それが<大きな画面に極彩色のマンガが動いて音を出す>映画なのだから堪らない。座席に着いた子供たちの昂奮振りときたら大変なものだ。
 映画が始まった。ぼくは―いや、ぼくたちはアニメーションの魔術に忽ち酔いしれた。
 長編が終わると、必ずミッキーやドナルドの短篇をやってくれた。これがまたおもしろかった。それらの中で、最も印象に残っているのが<ジャックと豆の木>の話だ。ジャックの役をするのが、ミッキー、ドナルド、グーフィーの三人で、深夜に床板の割れ目から出た豆の芽が、見る見る巨大な蔓に育って、うねりながら家を壊して伸びて行く場面の、アニメーションならではの不気味さと、空中高く運ばれていくのにミッキーたち三人は眠ったまま、というところから来るギャグは忘れられない。

 『ダンボ』は学校から観に行く作品にはいってなかったので、叔父に連れて行ってもらった。新開地のテアトル神戸のロビーで、ダンボの面を頭に載せた8歳のぼくの写真が残っている。

 高校生の時『眠れる森の美女』を観たのを最後に、ぼくは長い間ディズニーのアニメーションから遠ざかっていた。それが30を過ぎて子供ができてからは、子供たちを連れて春休みや夏休みに上映されるディズニーを観に行くようになった。もちろん子供たちは大喜びである。
 おとなになってから観ると、子供の頃には気が付かなかったことが判って、また違うおもしろさがある。

 酔っ払ったダンボの幻覚は、まるで1960年代末のサイケデリック・イメージである。ダンボに飛び方を教えるカラスたちは明らかに、お洒落な黒人として描かれている。
『わんわん物語』のトランプとレイディは、顔といい役柄といい、これはもうクラーク・ゲイブルとヴィヴィアン・リーである。そうすると『ピーター・パン』のティンカー・ベルはレスリー・キャロンだろうか。嫉妬に駆られたティンカー・ベルの触れた葉っぱが焼け焦げる、というギャグは日本の<悋気の火の玉>という言い回しを思い出させる。

 フック船長が左手のフックを取り替えるところは、のちのブルース・リーの映画が真似をした。『白雪姫』の背景の色調が柔らかいのは、どうやら透明水彩を使っているらしい。王子様はどう見てもデクノボウである。ピノキオのはいる玉突き場は、全体の形が大きなエイトボール(つまり、役立たず・ろくでなしの意)である。コオロギが最後にもらったメダルには・・・・と書いていけば切りがない。ディズニーはいつ観てもおもしろいのだ。


『うみべのまち』のマンガの一部です。
マキ1犬が行く

マキ2ピクルス街異聞

マキ6うみべのまち

アンヌ1アンリとアンヌのバラード1

アンヌ2アンリとアンヌのバラード2

天国天国でみる夢

あべこべ古典的あべこべロック

ハーフハーフ・クレイジー

ピクルスピクルス街異聞

絵2ピクルス街異聞

スキャットスキャット大佐の記録

まっくすかなしい まっくす

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