『朝鮮幽囚記』6

<『朝鮮幽囚記』6>
図書館で『朝鮮幽囚記』という東洋文庫を、手にしたのです。
昨今では韓国から「歴史認識」を突きつけられる日本であるが、では、オランダ商人が見た李朝朝鮮、江戸期の日本はどんなだったか・・・興味深い本である。

先頃『韃靼漂流記』という東洋文庫を読んだが、これら二つの記録ではオランダ人と日本人という違いがあるにしろ遭難時に体験した朝鮮がどんなだったか比較してみるのも面白いと思うのです。


【朝鮮幽囚記】


ヘンドリック・ハメル著、平凡社、1969年刊

<カスタマーレビュー>より
江戸時代、長崎に来るはずのオランダ商船が東シナ海で遭難、30数名の乗組員が李王朝時代の朝鮮に長年に亘って幽囚の身と成ったとき、彼等の目で見た当時の朝鮮を書き残している貴重な歴史的書物。後年英国の旅行家イサベラ・バードが書き残した20世紀初頭の朝鮮の状況と殆ど変わらない姿に、我が国同様に長年鎖国を堅持した朝鮮の、新しい時代の流れを自力で吸収しようとしなかった国の姿を見ることが出来た。

<読む前の大使寸評>
昨今では韓国から「歴史認識」を突きつけられる日本であるが、では、オランダ商人が見た李朝朝鮮、江戸期の日本はどんなだったか・・・興味深い本である。

amazon朝鮮幽囚記


長崎到着からオランダへの帰還あたりを、見てみましょう。
p69~72
<一六六六年>
 彼等はそこで私たちの船を大きな錨と太い綱でしっかりともやって、見張りの小舟で厳重に監視しました。彼等は前に連行した男の他にもう一人を連行し、二人を上陸させて尋問しましたが、お互いに理解することはできませんでした。陸上では大騒ぎをしていましたが、人々はかならず一本か二本の刀を帯びているようでした。私たちはお互いに悲しい目を見合わせて、いよいよ捕らえられたのだと観念しました。彼等は長崎の方角を指して、同地には我が国の船と国民とがいるのだということを手真似で示そうとしていました。彼等はこれで私たちを慰めようとしてはいたのですが、私たちを疑っていないというわけではなく、ちょうど捕らえた時のように逃げることができなくして、安心するつもりだったのでした。

 夜に入ると大きな船が湾に入って来て、私たちを乗船させました。後で長崎で聞いたところによりますと、その船には同地まで私たちを連れて行ってくれた、この群島の第三番目の人物がいたということでした。彼は私たちを見て、私たちがオランダ人であるとはっきり言明しました。そして長崎には五隻の船が入っていて、私たちは四、五日中にそこに連れて行かれるのだということを手真似で説明してくれました。

 ここは五島で、住民は日本人で、皇帝の支配下にあるということで、私たちはたいへん安心しました。彼等はどこから来たのかと手真似で聞きますので、どこから来たのかを手真似でできる限り説明しました。すなわち私たちは朝鮮から来たのであって、十三年前に船が難破し、現在は同胞の許に帰るために長崎に行こうとしているのだと説明したのです。この時には私たち一同は少々気をとりなおしてきたのですが、まだ恐怖が残っていました。というのは、朝鮮人は私たちに、日本の島々に漂着した外国人はかならず殺されてしまうと教え込んでいましたし、未知の海を四十マイル以上も古く脆い船で航海して来たばかりだったからです。

 九月九、十、十一日は碇泊し、船上でも、陸上でも前に述べたとおり厳重に監視されました。彼等は私たちに副食物や飲料水や薪その他の必要品を支給し、また雨が激しく降りましたので、船内が濡れないように藁むしろで屋根を張ってくれました。

 九月十二日。私たちの長崎への旅行に必要な準備が完了しました。私たちは正午に錨をあげて、夕方にはある島の内側に到着し、村の正面に投錨しました。私たちはその夜はそこに碇泊しました。
(中略)
 九月十四日。私たちは全員一緒に上陸させられました。そして会社の通訳から歓迎を受けました。彼は私たちにあらゆる事柄を質問しました。それは彼等によって紙に記録されて奉行に提出されました。正午頃私たちは奉行の前に呼び出されました。
 総督は私たちが自由を求め、これほど広い海を、このように小さく、古く、そして脆い船で危険を冒して横断してその自由を得たことを賞讃し、通訳に、私たちを出島の商館長の所に連れて行くように命じました。

 そこに着きますと、商館長ウィルレム・フォルヘル閣下、次席ニコラス・デ・ローイ閣下および居合わせた使用人の方々から鄭重なもてなしを受け、ふたたびオランダ風の衣服を身につけました。人々は全能の神に対して、幸運の恩寵と、長期間の健康を与えられたことについて感謝を捧げました。
(中略)
 十月一日にフォルヘル閣下は出島を離れ、同月二十三日七隻の船を率いて湾を出発されました。私たちはこれらの船を悲しみとともに見送りました。というのは、それまでは閣下と一緒にバタビアに航海できるとばかり想像していたのですが、長崎奉行によって一年間滞在させられることになったからです。
(中略)

 一六六七年。十月二十三日、正午頃、新奉行の着任とともに出発の許可を得ることができました。私たちは夕方フライト船デ・スプレーウ号に乗船し、フライト船デ・ウィッテ・レーウ号と船団を組んで出発することになりました。

 十月二十五日。夜明けとともに錨をあげて長崎港を出発しました。

[私たちは1667年12月28日にバタビアを出帆し、ほとんど支障なく1668年7月20日にアムステルダムに到着しました]

この本も朝鮮紀行あれこれに収めるものとします。

『朝鮮幽囚記』5:朝鮮人の性癖や貿易
『朝鮮幽囚記』4:朝鮮の家屋、家具
『朝鮮幽囚記』3:朝鮮国王への謁見とか、かの地での任官
『朝鮮幽囚記』2:朝鮮人との遭遇
『朝鮮幽囚記』1:遭難時の状況

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