『朝鮮幽囚記』1

<『朝鮮幽囚記』1>
図書館で『朝鮮幽囚記』という東洋文庫を、手にしたのです。
昨今では韓国から「歴史認識」を突きつけられる日本であるが、では、オランダ商人が見た李朝朝鮮、江戸期の日本はどんなだったか・・・興味深い本である。

先頃『韃靼漂流記』という東洋文庫を読んだが、これら二つの記録ではオランダ人と日本人という違いがあるにしろ遭難時に体験した朝鮮がどんなだったか比較してみるのも面白いと思うのです。


【朝鮮幽囚記】


ヘンドリック・ハメル著、平凡社、1969年刊

<カスタマーレビュー>より
江戸時代、長崎に来るはずのオランダ商船が東シナ海で遭難、30数名の乗組員が李王朝時代の朝鮮に長年に亘って幽囚の身と成ったとき、彼等の目で見た当時の朝鮮を書き残している貴重な歴史的書物。後年英国の旅行家イサベラ・バードが書き残した20世紀初頭の朝鮮の状況と殆ど変わらない姿に、我が国同様に長年鎖国を堅持した朝鮮の、新しい時代の流れを自力で吸収しようとしなかった国の姿を見ることが出来た。

<読む前の大使寸評>
昨今では韓国から「歴史認識」を突きつけられる日本であるが、では、オランダ商人が見た李朝朝鮮、江戸期の日本はどんなだったか・・・興味深い本である。

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遭難時の状況を、見てみましょう。
p3~8
<オランダ領インド総督閣下および評議員各位殿>
 私たちは1653年1月10日の夕方、順風にめぐまれてテクセルの泊地を出帆し、逆風と嵐とに妨げられながらも、6月1日にバタビアの泊地に到着いたしました。
 
 私たちは総督閣下および東インド評議員の方々からホルモサ(台湾島)のタイオワン港の政庁に着任して、同地に在任中のニコラス・フェルブルフ長官閣下と交代するコルネリス・カエザル閣下とその家族を乗せてタイオワン港に向かうよう命令を受け、6月18日にヤハト船スペルウェール号で、バタビアの泊地を出帆いたしました。

 私たちは幸運でしかもすみやかな航海ののち、7月16日にタオワン港の泊地に到着いたしました。閣下は同地で上陸され、また私たちが積み込んで来た荷物も陸揚げされました。私たちは長官閣下およびタイオワンの評議員からさらに日本に向かうようにという命令を受けましたので、積荷をすませ、閣下に別れをつげ、同月30日に前記のタイオワン港の泊地を出帆し、神の御名において私たちの航海が早くすむように先を急ぎました。

 7月31日は好天にめぐまれましたが、夕方になってタイオワンの海岸から激しい暴風に襲われました。その夜は暴風は続けば続くほど激しくなりました。

 8月1日。夜明けの光によって私たちはある小さな島のすぐそばにいることがわかりました。私たちはその島の陰に投錨し、激しい風と荒狂う波を少しでも避けようとしました。私たちは大きな危険を冒してようやくその島に近づき、その陰に投錨しましたが、背後には大きな暗礁があって、波が非常に激しく湧きかえっていましたので、錨索をゆるめることができませんでした。船長がこの小島を船尾の展望台の窓から一目見て偶然発見しなければ、私たちはそこで難破してしまい、雨と暗闇のために船を失ってしまったに違いありません。というのはその小島を最初に発見した時には、そこまでマスケット銃の射程ほどの距離もなかったからです。

 明るくなってみますと、私たちはシナの海岸のすぐ近くを漂流していることがわかりました。そしてシナ人が完全に武装して、隊伍を組み、海岸に沿って行進しているのが見えました。それは私たちが座礁するに違いないと考えているためだと思われました。しかし最高の神の御助けにより、そのようなことにはならずにすみました。その日は暴風は止むどころかますます強くなりましたので、私たちは投錨したままで過ごし、その晩もそれを続けました。

 8月2日。朝になると暴風は完全におさまりました。シナ人は依然として示威運動を行ない、私たちを生捕りした狼のように見張っていました。そこで私たちは錨やロープやその他の品物の危険を避けるために、錨をあげて出帆し、彼等の視界を去って海岸を離れることにしました。その日は海は日中も夜も非常におだやかでした。

 8月3日。朝になって、私たちは海流のために20マイルほども流されていたことを発見しました。しかもフォルモサ島の海岸がふたたび見えてきましたので、私たちは進路を両者の中間にとりました。
(中略)

 8月15日。風が激しく吹くため、上甲板では話をしても聞きとることも理解することもできず、また帆をあげることもできませんでした。船は漏水がひどくなってきましたので、ポンプを充分に働かせて組み出さなければなりませんでした。船は時化のために時々ひどく波をかぶりましたが、そんな時にはこれでもう船が沈んでしまったのではないかということしか頭に浮びませんでした。
(中略)
 第二直の二点鐘頃、見張りをしていた男が「陸だ!陸がマスケット銃の射程ぐらいの距離にある」と叫びました。彼は暗闇と大雨のために、その時までそれを発見することができなかったのです。私たちはすぐに錨を投じ、舵を錨索の線に固定させましたが、海が深く、またうねりや激しい風のために錨がきかず、船はたちまち座礁し、一瞬の中に三回衝撃を受けて完全にばらばらになってしまいました。

 下甲板の寝棚で横になっていた人々は、上甲板に出て自らを救う時間がなかったようで、命を捨てなければなりませんでした。上甲板にいた人々は、ある者は甲板から海中に飛び込み、他の者は波のためにあちらこちらに投げ出されてしまいました。陸地に漂着したのは十五人で、大部分は裸で、ひどく負傷しており、他に助かったものはいないだろうと考えていました。

 8月16日。早朝、日が昇ると、多少とも歩くことのできる人は海岸に沿って歩き、誰か他に上陸していないか探したり、大声で呼んだりしました。やがてあちらこちらから数人の人々が姿を現わし合計三十六人であることがわかりました。大部分は前に申しましたようにひどく負傷しておりました。


オランダ人たちの遭難から9年前の1644年、ロシア沿海州の海岸で、日本人が遭難したのです。

【韃靼漂流記】


園田一亀著、平凡社、1991年刊

<カスタマーレビュー>より
 17世紀の半ば、越前国新保村の竹内藤右衛門ら58名は、松前貿易のために三国浦を船出しますが、航海中暴風のため難破の憂き目に遭い、今の沿海州ポシエット湾の辺り、「韃靼」の地に漂着します。仲間の大半は現地民とのトラブルにより非業の最期を遂げますが、生き残った15名は瀋陽を経て北京に送られ、当局の保護の下、暫し北京滞在の日々を送ることとなります。

<読む前の大使寸評>
興味深い史実であるが・・・ぱっと見とにかく、漢字の密度が多い文章である。
歴史的仮名遣いは丸谷才一さんほどではないけど、読みにくいことこの上ないのだ。

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『韃靼漂流記』7:北京留置の理由
『韃靼漂流記』6:北京の見聞談、満州語の紹介
『韃靼漂流記』5:奉天官憲の取調べ
『韃靼漂流記』4:韃靼国の都・奉天までの旅
『韃靼漂流記』3:下手人の素性
『韃靼漂流記』2:遭難の状況
『韃靼漂流記』1:著者による序言

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