『新潮日本文学アルバム井伏鱒二』1
<『新潮日本文学アルバム井伏鱒二』1>
図書館で『新潮日本文学アルバム井伏鱒二』という本を、手にしたのです。
井伏鱒二といえば、以前に読んだ『徴用中のこと』にあるとおり戦中派の作家という印象も強いし、『黒い雨』の作者でもある。
徴用から終戦のあたりを見てみましょう。
ウーム 藤田嗣治や林芙美子らは戦後に寝覚めの悪い思いをしたようだが、その点、井伏さんは毅然としていたようですね。
『徴用中のこと』2
『徴用中のこと』1
図書館で『新潮日本文学アルバム井伏鱒二』という本を、手にしたのです。
井伏鱒二といえば、以前に読んだ『徴用中のこと』にあるとおり戦中派の作家という印象も強いし、『黒い雨』の作者でもある。
【新潮日本文学アルバム井伏鱒二】 ![]() 井伏鱒二、新潮社、1994年刊 <「BOOK」データベース>より 少年時代は画家志望。青春の孤独を通して得たユーモアとエスプリ、清新な感覚で開花した市井人の文学。原爆の悲劇を世界に訴えた『黒い雨』の巨匠の生涯。 <読む前の大使寸評> 井伏鱒二といえば、以前に読んだ『徴用中のこと』にあるとおり戦中派の作家という印象も強いし、『黒い雨』の作者でもある。 rakuten新潮日本文学アルバム井伏鱒二 |
徴用から終戦のあたりを見てみましょう。
p52~55 <徴用員井伏鱒二> 昭和16年11月、甲府市の宿に滞在しているとき、東京からの突然の電報で陸軍徴用を知らされた。11月22日の「ひとしほ寒い日」に大阪の連隊に収容され、行先も任務も知らされぬまま1万トン級の船に乗せられて南方に持って行かれる。軍は南方占領地の文化工作のために文学者を徴用したのである。 太平洋戦争勃発のニュースを知ったのも海上でのことであった。43歳のことである。 サイゴン、シンゴラ・ゲマスと進みシンガポール陥落の翌日の2月16日にシンガポールに到着している。兄の急逝の報を受けたのもここシンガポールでのことであった。 ここで英字新聞「昭南タイムズ」(The Syonan Times)の編集者兼発行人として勤務するが、その後は神保光太郎が園長をしている「昭南日本学園」に勤務し、現地人に日本歴史の講義をしたりしている。 また、一方では小説「花の街」を「大阪毎日」「東京日日」の両新聞に連載し続ける。この「花の街」は、日本軍宣伝部資料班の人々と、昭南日本学園生徒ベン・ロリヨン一家との長閑な交流を描いたものであるが、しかし、実際には爆弾の跡も残っている占領地での日本軍の横暴をきわめた姿を随所に目撃していたはずである。 司令部とともに移動する宣伝部資料班に所属していたために戦死者を出すことはなかったが「他の班では戦死する人がゐた。自殺する人も一人ゐた。味方の憲兵に射殺された人も一人ゐた」(「戦死・戦病死」)というなかにあって、軍人の一挙手一投足に自らの生命を左右される状況は、不愉快きわまりない“悪夢”の日々であったに相違ない。 (中略) 翌17年11月22日に徴用解除となるが、このマレー従軍による1年間は、それまで漠然といだいていた戦争への感慨を、より明確に決定づけるための実体験の場としてあったということに外ならない。このときに決定づけられた戦争観は、戦中戦後を通じて少しの揺るぎもみられない。 そのことは、昭和25年に発表される「遥拝隊長」の中に、さらには昭和40年発表の「黒い雨」の中にその証をみることとなる。 「私は徴用時代の自分を回顧して、山下将軍をはじめ、『校長先生』、『黒』、『柳君』、その他、戦死、戦病死で亡き数に入った人に対し、自分がまだ生きてゐるからと云つて、寝覚めの悪い思ひをするやうなことはない」。これは昭和38年発表の「戦死・戦病死」の中のことばであるが、このように言い切ることのできる作家が、果して何人いるであろうか。 |
ウーム 藤田嗣治や林芙美子らは戦後に寝覚めの悪い思いをしたようだが、その点、井伏さんは毅然としていたようですね。
『徴用中のこと』2
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