『韃靼漂流記』3

<『韃靼漂流記』3>
図書館で『韃靼漂流記』という東洋文庫を、手にしたのです。
興味深い史実であるが・・・ぱっと見とにかく、漢字の密度が多い文章である。
歴史的仮名遣いは丸谷才一さんほどではないけど、読みにくいことこの上ないのだ。


【韃靼漂流記】


園田一亀著、平凡社、1991年刊

<カスタマーレビュー>より
 17世紀の半ば、越前国新保村の竹内藤右衛門ら58名は、松前貿易のために三国浦を船出しますが、航海中暴風のため難破の憂き目に遭い、今の沿海州ポシエット湾の辺り、「韃靼」の地に漂着します。仲間の大半は現地民とのトラブルにより非業の最期を遂げますが、生き残った15名は瀋陽を経て北京に送られ、当局の保護の下、暫し北京滞在の日々を送ることとなります。

<読む前の大使寸評>
興味深い史実であるが・・・ぱっと見とにかく、漢字の密度が多い文章である。
歴史的仮名遣いは丸谷才一さんほどではないけど、読みにくいことこの上ないのだ。

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著者が土民と称している下手人たちを、見てみましょう。
p110~112
<下手人の素性>
 次は竹内藤右衛門等を殺戮せる下手人の素性である。其の兇徒は果して如何なる種類の人間であったか。如何に外国人とは申せ、何等の武器も携帯せず、亦ゴウも敵意を抱かない人間を、平気で殺戮するところは断じて普通人の所為ではない。実に驚くべき残忍性を持った人種と申さねばならぬ。

 此の土民こそ実は明代の所謂野人女直であった。清初に於て東海瓦爾喀人と呼ばれ新満州と称された女真人であった。その性質は夙に暴戻奸詭の称があった。過ぐる文禄の役、我が朝鮮第二軍の加藤清正の〇下の精鋭を率ゐ〇鏡道から間島方面に進出せる際、数次激戦せる所謂〇良〇人と称せるものも亦彼等と同一の種族であったと想像される。その日常は半漁半猟の原始的生活であった。薩英額の吉林外記〇春の条に、
・・・
 と記せることは彼等の特質を語れるものに外ならぬ。彼等は所謂女真人であり、皆、女真語(後の満州語)を使用し海に出て海参・海菜を捕打して生計を営み、農耕すること極めて少なく、春夏秋冬、射猟を業と為し尤も槍技を得意とする連中であった。漂流記に「三尋ばかりの小舟に各一人づゝ乗って六十艘も漕寄せた」と謂ひ、或は「大勢の人間が弓を用いて日本人を射殺した」と語れるあり、兇徒がすべて瓦爾喀人は当時図〇江下流地域から沿海州方面一帯に亘り、東海の辺境、交通不便なる僻遠の地に散居してゐた。

 然も東海瓦爾喀部は、万歴三十五年から四十二年の間、清太祖・奴児哈赤(ヌルハチ)が再三兵を出し征服せる部族であった。されど彼等は当時衷心から清軍に服従せるものではない。清軍の武力に屈服し表面上其の統制に服することを誓ひ恭順の態度を偽装せるものであった。何分遠隔の僻地に在り、其の政令に聴従するものではなかった。漂流記の一節に「日本の人を殺し候処は遠国故郷法度も聞請不申候・・・」と謂えるは此の意味であらう。彼等の性質として日本船を見て忽ち悪心を起し、乗組員を謀殺し荷物を略奪する位のことは尋常茶飯事であった。

 竹内藤右衛門等は死神に魅入られてゐた。歩一歩、死に接近してゐた訳だ。寸前暗黒の運命は何人も予期し得なかった。若し彼等の船が今少しく西方に漂着し、図〇江口〇西の朝鮮側海岸であったならば、斯様な惨劇は発生することはなかったであらう。要するに越前漂流人の過半数は此時巳に其の命運が窺って居た。海上に難破して溺死を免れた代り、兇悪なる瓦爾喀人の兇手の下に横死するに至つた。竹内藤右衛門等にとって所詮は免れ難き宿命であったとも謂い得る。


『韃靼漂流記』2:遭難の状況
『韃靼漂流記』1:著者による序言

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