『日本文化の形成』3

<『日本文化の形成』3>
図書館に借出し予約していた『日本文化の形成』という本を、待つこと1週間でゲットしたのです。
『歴史と出会う』という本の中で、網野善彦がこの本に言及していたので、図書館に借出し予約していたのです。



【日本文化の形成】


宮本常一著、講談社、2005年刊

<「BOOK」データベース>より
日本列島を徹底踏査した民俗学の巨人が、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などの古代文献を読み返し、それらと格闘の末、生まれた日本文化論。稲作を伝えた人びと、倭人の源流、畑作の起源と発展、海洋民と床住居など、東アジア全体を視野に入れた興味深い持論を展開する。長年にわたって各地の民俗を調査した著者ならではの着想を含む遺稿。

<読む前の大使寸評>
『歴史と出会う』という本の中で、網野善彦がこの本に言及していたので、図書館に借出し予約していたのです。


<図書館予約:(8/04予約、8/12受取)>

amazon日本文化の形成



この本で稲作渡来あたりの古代史のおさらいを、してみましょう。
p178~181
<海洋民と床住居>
 ところで日本民族が国家的な結合をはじめたのはいつ頃であろうか。それは稲作をはじめた以後のことである。稲作は紀元前300年頃からのことであろうという。稲はもともと日本にあった植物ではなかったようである。海の彼方からもたらされた。誰かが持って来た。

 稲作は朝鮮半島を経由して伝えられたものではあるが、中国北部から満州、朝鮮北部を経由し、朝鮮南部から日本へわたってきたものではないという。朝鮮北部には、紀元前300年頃の稲作の遺跡は見つかっていないという。そうすると米は中国大陸から朝鮮半島西岸をへて、日本に伝えられたと見られる。日本への文化の流入は、海を越えて来る以外にルートはない。そしてそれは米と米を作る技術だけが日本に渡来したのではなく、稲作技術を持った者が籾を持って日本に渡来して来たと見ていい。

 稲作はもともとたいへん計画的なものであった。稲を作るためには水田をひらかねばならない。またそのためには農具を必要とする。鍬、鋤のようなものを作るにしても、石斧を使って作れないこともないであろうが、今日存在する木製農具を見ると鉄製の刃物で作ったことが推定される。

 『後漢書』の「韓伝」に「この国[辰韓]は鉄を産出する。ワイ・倭・馬韓がともにやって来て、鉄を買う。およそどのような貿易も、すべて鉄を貨幣としている」とあり、『三国志』の「弁辰伝」にも「[弁辰の]国々から鉄を産出する。韓[族]ワイ[族]・倭[族]が、みな鉄を取っている。どの市場の売買でもみな鉄を用いていて、[それは]中国で銭を用いているのと同じである。そしてまた[鉄を楽浪・帯方]二郡にも供給している」といっている。その鉄を産するところを谷那といったことは『日本書記』に記されている。朝鮮南部で鉄を出し、周囲の住民がこれを利用し、その中に倭人もいた。

 ところが『後漢書』「韓伝」によると「韓には三種がある。一を馬韓といい、二を辰韓といい、三を弁辰という。馬韓は西にあり、54国がある。北は楽浪と南は倭と接している。(中略)弁辰は辰韓の南にあって、これまた12国ある。南もまた倭と接している」。『三国志』「魏書」の「韓伝」にも「韓は南は倭と接している」とある。すると朝鮮半島南部海岸付近は倭人の植民地であり、ここに住みつくことによって鉄を得、稲作によって生活をたてる方法を見出し、海をこえて北九州にも植民するようになったのであろう。『後漢書』は5世紀前半に、『三国志』は3世紀後半に書かれたもので、日本へ米の伝来したときよりはずっと後のものであるが、これらの記事を通して前記のような推定もなされるのである。

 そして弥生式時代の中期の終わり頃には日本列島の上にも小さな国がいくつも生まれはじめていた。北九州にあった奴国の王が後漢に朝貢して、光武帝から「漢委奴国王」の印綬をうけたのは建武中元2年(57)のことであった。この頃から漢と接触を持つようになったと思われる。

 そして朝鮮半島を北から南へ下り、海をこえて日本にいたる道もひらけ、大陸文化が滔々として日本に流入し、文化ばかりでなく、在来の日本人との間に大きな混血の起こったらしいことは、近畿から瀬戸内海へかけて朝鮮半島に近い類型が見られることで推定されるが、私はそれよりも、朝鮮半島の西部から南部を経由して日本にいたった海上の道を重視したい。

 さきにも書いたように、日本に来るには海をこえなければならない。朝鮮半島から日本へ渡来した人びとも海をこえたはずであり、そのための船はどのようにして用意されたであろうか。海岸に出ればそこに船があって、それに乗ってわたって来たというようなものではない。たとえば、騎馬民族に造船操舟の技術があっただろうかどうか。あるいは騎馬民族以外の半島人たちの渡来も同様である。日本へ大挙してわたるためには準備に容易ならぬ努力を必用としたはずである。

 しかもそれが異国への大挙渡来の場合には侵寇の様相を持つはずであるが、『古事記』『日本書記』にはそのような記事はほとんど見えない。これは半島側にも日本側にもともに倭人がおり、倭人の船を利用して渡来する者が多かったからではなかろうか。

ウン 「半島側にも日本側にもともに倭人がいて、倭人の船を利用して渡来した」というのか・・・説得力があるなあ。でも、どんな船だったんだろう?

『日本文化の形成』2:瀬戸内海の文化
『日本文化の形成』1:焼畑

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック