『日本文化の形成』1

<『日本文化の形成』1>
図書館に借出し予約していた『日本文化の形成』という本を、待つこと1週間でゲットしたのです。
『歴史と出会う』という本の中で、網野善彦がこの本に言及していたので、図書館に借出し予約していたのです。


【日本文化の形成】


宮本常一著、講談社、2005年刊

<「BOOK」データベース>より
日本列島を徹底踏査した民俗学の巨人が、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などの古代文献を読み返し、それらと格闘の末、生まれた日本文化論。稲作を伝えた人びと、倭人の源流、畑作の起源と発展、海洋民と床住居など、東アジア全体を視野に入れた興味深い持論を展開する。長年にわたって各地の民俗を調査した著者ならではの着想を含む遺稿。

<読む前の大使寸評>
『歴史と出会う』という本の中で、網野善彦がこの本に言及していたので、図書館に借出し予約していたのです。

<図書館予約:(8/04予約、8/12受取)>

amazon日本文化の形成



著者は狩猟・採集の延長としての焼畑に注目しているので、見てみましょう。
p108~112
<焼畑>
 これまで日本における生産構造のうち、もっとも古い基盤になっている狩猟・漁撈・採取文化の上に、漁撈・稲作文化がどのように伝来し普及定着していったか、また赤米作・漁撈文化がどのように伝来し普及定着して来たかを見て来たのであるが、いまひとつ重要なことを説き落としている。それは畑作である。畑作の技術がどのように発達して来たかということは、最もわかりにくいと言ってもいい。しかし非常に重要な生産構造であった。

 畑作の前形式をなす焼畑については佐々木高明氏による『日本の焼畑』(1972、古今書院)というすぐれた論考があり、戦前には小野武夫博士の『日本農業起源論』(1942、日本評論社)があり、そのほか山口貞夫、佐々木彦一郎氏ら地理学者の研究があり、山口弥一郎博士の『東北の焼畑慣行』(1944、恒春閣書房)という民俗学的な研究もなされていた。
 私もまた焼畑については深い関心を持っていた。戦前旅の途中で焼畑をしばしば見る機会を持ったし、宮崎県東米良、椎葉、高知県寺川(土佐郡)、石川県白峰(鳳至郡)、能登門前、山梨県ユズリ原(北都留郡)などではかなりくわしい聞き取りをおこなうこともできた。そして焼畑は、狩猟・採集の延長として発生したものではないかと考えるようになった。

 焼畑は多くの山の中腹から上の緩傾斜面でおこなわれているが、火山地方では山麓にも見られる。そのはじめは、おそらくそこを覆っている木を焼き払うことによって、森林の中にひそむ猪や鹿を野へ追い出し、捕らえることもあっただろうし、木立になっていないところに追い出した野獣は巻狩をすることも容易であったと考える。そのようにして木立を焼くことは少なくなかったと考えるが、その焼跡に生えたものは食糧として利用できるものが少なくなかった。まずワラビがある。下北半島の恐山の周辺では、大正時代まではさかんに野焼きがおこなわれていたという。

 焼けばかならずそのあとによいワラビが生えた。若い間はそれをゆでて食べ、根は秋になって掘りとって搗きくだき澱粉をとった。そのような慣習は下北地方ばかりでなく、秋田県の仙北地方、長野県乗鞍岳東麓などでも聞いた。かなり広い面積を焼いたようであった。それは焼畑の前形式と見てよいのではないかと思う。

 佐渡などでは山を焼いたあとへダイコンをまいているが、もともとダイコンやカブラは野生のものではなかったかと思う。山を焼いたあとに作ったものには辛みがない。だからいまもダイコンを作るために焼畑をおこなっているが、東北・北陸の焼畑では古くはみなダイコン・カブラを作っていた。サトイモなども焼畑に作るとエグ味が少なくなったものである。

 つまり山を焼くことによって野獣を捕らえるのに便利であるばかりでなく、焼跡には食糧に適する植物の育成も見られたであろう。そうした経験が、焼いたあとへ一定の植物の種子をまいたり、あるいは根菜を植えるような作業を生み出していったのではないかと思う。このようにして山の頂近いところでも山を焼くことから植物の食糧化が進み、生活をたててゆくこともできるようになっていったのではないかと思う。そのような体験の積み重ねが、焼いたあとの地面を植物栽培に利用するようになっていったのではなかろうか。
 だが人びとは山の頂近くに住んだばかりでなく、山麓や台地の上や、時には川のほとり、海岸などにも多数に住んでいた。それぞれの土地に生きていけるだけの条件があったからである。ドングリやトチの実は縄文の遺跡から発見されるばかりでなく、そうしたものをひきつぶしたであろう叩き石や石棒あるいは石皿の出土はきわめて多い。そしてドングリ、トチの実などが食糧として利用された量は時代が下るとともに多くなっていったのではなかろうか。
(中略)

 焼畑耕作を必用とする人びとは移動性が強かった。狩人はその系列に属する者で、この人たちは野獣を追って山から山へわたりあるいたわけであるが、野獣の多いところには適当な場所を求めてしばらくは小屋掛けをして足をとどめたようで、周囲の山地を焼いて焼畑耕作をおこなうことが少なくなかったと考える。

 焼畑習俗を持つ村々には狩をおこなっているものが多いのである。青森県下北半島の畑・川名などはもと焼畑をさかんにおこなっていたし、秋田の阿仁(北秋田郡)付近のマタギの村々でも焼畑をおこなっていたと聞いた。九州山脈南部の山間の村々も早くから狩猟を生業の一部としているものが多いが、そこにもまたさかんに焼畑がおこなわれていた。
 そしてそれはまた近畿や中部の山地も同様ではなかったかと思っている。山間の村の祭には鹿や猪の耳や鼻を切って供えたり、その代用として餅を供えたりする風習もあるものが少なくない。これは追い追い調査して明らかにしていかなければならないと思っているが、狩猟関係の村に焼畑が多くおこなわれていたことは両者に深い関係があったと見てよいのである。


以前に読んだ宮本常一に関する本を紹介します。

【宮本常一 旅する民俗学者】
宮本

佐野真一責任編集、河出書房新社、2005年刊

<「BOOK」データベース>より
【目次】
口絵・宮本常一写真集成 オン・ザ・ロードー写真という「記憶の島」/巻頭言 佐野真一ー知恵の宝庫の発掘作業/宮本常一の思い出エッセイ/特別対談 谷川健一・佐野真一 旅する民俗学者ー今なぜ宮本常一なのか/宮本常一単行本・著作集未収録コレクション/宮本常一の継承エッセイ/評論/レポート/資料

<読む前の大使寸評>
責任編集というムック制作があるのか♪
まあ、宮本常一を世に知らしめたような佐野真一であるから、これはこれでいい企画だと思うのです。

rakuten宮本常一 旅する民俗学者
『宮本常一 旅する民俗学者』1:かなたの大陸を夢みた島
『宮本常一 旅する民俗学者』2:圧倒的な足跡・調査・ディテール


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