『実録アヘン戦争』1

<『実録アヘン戦争』1>
図書館で『実録アヘン戦争』という新書を、手にしたのです。
かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。


【実録アヘン戦争】


陳舜臣著、中央公論新社、1971年刊

<「BOOK」データベース>より
古書につき、データ無し

<読む前の大使寸評>
かなり古い本であるが、毎日出版文化賞受賞の本ということで・・・期待できそうである。

amazon実録アヘン戦争


貿易品としての茶とアヘンを、見てみましょう。
p30~34
<奇形通商>
 茶は16世紀のはじめ、船員や伝道士によってヨーロッパに紹介され、はじめは薬屋で貴重薬としてはかり売りなどをしていたが、しだいに喫茶の風習が一般にひろまり、とくにイギリスでは、19世紀にはいってから「ティー・タイム」が習慣化し、茶の需要は急増した。

 茶の供給源は中国にしかなかった。アッサムやセイロンで茶の栽培がはじめられたのは、後年のことである。だから、金額にしてもおびただしい額の茶葉を、イギリスは中国から輸入しなければならなかった。

 ところが、それに対して、イギリス側では、適当な見返りの輸出品がなかった。毛織物の輸出に力を入れようとしたが、それがどうしても中国人の好みに合わないことがわかって、輸出量も伸び悩んだ。時計や望遠鏡など、たしかに乾隆帝の勅諭にもみえているように、奢侈品であって、無くてもすませるものだった。

 中国の出超、イギリスの入超という、いわゆる「片貿易」になる。見返りの輸出品がないので、巨額の茶葉購買の代金は、どうしても現金決済となる。このようにして、イギリス船はメキシコ・ドル、スペイン・ドルなどの銀貨を積んで広州へ行き、そして茶葉を積んで帰るということになった。
(中略)

 中国で本格的に銀貨が出現するのは、辛亥革命以後のことで、孫文や袁世凱の像をもった一元銀貨が出まわり、前者は「孫頭」、後者は「袁頭」と称されていた。
 おれはともかく、最も多く流通したのはメキシコ銀貨で、これは鷹の模様があったので「鷹洋」と呼ばれた。「洋」とは洋銀、つまり西洋の銀貨という意味である。

 茶葉の輸出代金として、この洋銀が中国に流れ込み、そのまま流通するようになったわけだが、現銀が国内に溢れているとき、庶民はわりあい暮らしやすい。その反対のケースになれば、人民の生活は圧迫されるのだ。

 茶葉を大量に輸出し、みるべき輸入品がないうちは、銀は国内にだぶついていた。ところが、みるべき輸出品どころか、こんどはとんでもない輸入品が、中国の市場に出現したのである。

 アヘンである。
 インド製のアヘンの輸入が、清国の貿易形態を逆転してしまった。イギリスはこのアヘンという新製品を開発することによって、万年入超という、アンバランスな対清貿易を正常化しようとしたのである。

 それは成功した。
 成功しすぎたのである。
 イギリスが清国から輸入する茶葉の額よりも、清国に販売するアヘンの額のほうが、はるかに多くなったのだ。そうすると、これまでとは逆の現象が起こる。清国側としては、アヘン購入代金の見返りとして、茶葉の輸出だけでは足りなくなって、現銀を充てねばならなくなった。銀がどんどん海外に流出して行くのである。

 極端な出超から、極端な入超へ。・・・このアブノーマルな劇的逆転は、とうぜん人民の生活のうえに、黒い影をなげかけた。
(中略)

 明の万暦17年(1589)の関税表によれば、アヘン二斤の値は銀条二個に相当し、その税率は十斤につき銀二銭と定められていた。正式の輸入が認められていたわけだが、もちろん薬材としてであって、その数量も微々たるものであった。
 このアヘンが、病気を治す薬としてではなく、嗜好品として中国にひろまったのは、清代にはいってからである。
 
(追って記入予定)


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