『カシス川』4

<『カシス川』4>
図書館に借出し予約していた『カシス川』という本を、およそ半年待ってゲットしたのです。
胃を全摘した大使にとっては「がん」ものは、まあ、ツボともいえるので借出し予約していたのです。


【カシス川】
カシス

荻野アンナ著、文藝春秋、2017年刊

<出版社>より
7年前に彼を癌で亡くし、父を見送った私の腸に、癌が見つかった。
これで私はようやく休める、私は腹の中に「楽園」を抱え込んでいるのだ。
告知を平然と受け止めた私は、ともに暮らす要介護4の母との入院を心に決めた。

<読む前の大使寸評>
胃を全摘した大使にとっては「がん」ものは、まあ、ツボともいえるので借出し予約していたのです。

<図書館予約:(1/20予約、7/13受取)>

rakutenカシス川


「日雇い通信」の記者という女が登場するので、見てみましょう。
p66~71
<ミッシェル> 
 爪がリノリウムの床を掻く音がする。黒く濡れた瞳は、闇の中でもそれと分かる。鳴き真似をすると寄ってくる。首を傾げている気配がある。私は安心して目をつむる。まどろみの中で、げっ歯類の歯が私の夢をかじる。おかげで私の朝は真っ白になる。

 「日雇い通信」の菅野、とその人は自己紹介した。おかっぱを黒く染めているので年齢不詳だが、痩せた首がコウノトリのようだ。血管の浮き出た手に、巨大なエメラルドが偽物を主張している。

 「がんの手術のことを聞かせてちょうだい。何でもいいからさ」
 貰った名刺には「記者」とあるが、しわがれた声は飲み屋の女将である。手術を「シリツ」と発音する。気配を察したのか、彼女は二枚目の名刺を取り出した。寿町で「クレオパトラ」というカウンターだけの店をやっている。

 横浜の寿町は、東京なら山谷、大阪なら西成だ。ただし寿町は、体験上、女ひとり、立ち飲みで一杯やれる緩い場所だ。NPO団体のやっているカレー屋「みのむし」と菅野は関係があり、タウン誌の編集を任されている。

 「不景気じゃない? 取材費は出せないけど、うちの店で飲み放題ってことで」
 「ドンペリ飲ませて」
 「ドンのペリ? チューハイのペリで勘弁してよ。うちのはドライで評判いいのよ」

 私はすでに菅野のペースに巻き込まれていた。母のヘルパーの知人、以外にじょうほうはない。赤の他人になれなれしくされている自分を眺めるむひとりの自分がいる。

 「何から話しましょうか?」
 「シリツ」
 では、と背筋を伸ばした。

 全身麻酔だから、手術そのものの記憶はない。眠りとは異質な、荒っぽいやり方で数時間が吹っ飛んだ驚きは、未だに覚えている。落ちた意識が戻ると、目の前が藤の花だった。テーブルに造花を括り付け、壁には藤柄の手拭いを貼ってある。

 傍らで母があわあわさせていた。問いかけに答える努力が吐気を呼んでくる。
 「一人にして」
 母は明らかな失意の表情を残して去った。一人になるとは、不快感と取り残されることだった。

 他人の看病を重ねた経験から、このような場合に気を紛らわす用意は怠りない。鼻からチューブ、患部からドレーン、背中に麻酔液の管、尿道にカテーテルの状態で、アロマを焚く気にならない。
(中略)

 棚の上のメモ帳を取るという最低限の動作が、思うに任せない。そのもどかしさは、肺と腰を病む母親の日常に近いと思い至った。母を哀れと思う余裕はなく自分の中身がすっぽり抜けている。

 朝になると、鈍痛は左下腹部に集中した。傷跡はへその下だが、傷跡そのものではなく、内部のいじった箇所が傷むと知った。無理やりへその下に意識を移したら、そちらのほうに痛みが移った。

 再びメモ帳を開く。無地のはずが薄い黄色のアラベスク模様が見える。何度か目を開いたり閉じたりした。ネズミの残像が残った。長い毛足が艶やかなブラウンで、濡れた瞳が私を凝視している。次の瞬きで飛んでいきそうなネズミを、意識の中に押し込めた。ミッシェルと名付けた。名前さえ付けてしまえば彼は私のものであり、私が彼の檻になる。


『カシス川』3:猫男
『カシス川』2:アンナさんの入院記
『カシス川』1:アンナさんの母子関係や病歴

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