『アースダイバー 東京の聖地』3

<『アースダイバー 東京の聖地』3>
図書館で『アースダイバー 東京の聖地』という本を、手にしたのです。
「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・
魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。



【アースダイバー 東京の聖地】


中沢新一著、講談社、2017年刊

<「BOOK」データベース>より
海民の二千年の知恵=築地市場、太古の無意識の現出=明治神宮。この二つの場所には、日本人の思考が「聖地」に見出してきた空間の構成原理が、ほとんど純粋な状態で実現されている。その二つの生きた聖地が、深刻な危機に直面したのである。金銭にかえられない「愛」と「富」のありか。建築家・伊東豊雄氏との対談2編収録。

<読む前の大使寸評>
「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・
魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。

rakutenアースダイバー 東京の聖地



江戸の魚河岸を、見てみましょう。
摂津の佃村から移住してきた漁民たちの苦労話でおます。
p47~53
■点のような佃島
 隅田川河口部にある佃島は、いまではそこがかつて島であったことを想像しにくいほどの、変貌をとげてしまっている。周囲には晴海や豊洲といった、比較的新しい埋立地ができ、石川島や月島・新佃島とは、いまやひと続きになっている。

 ところがかつて、ここは「点を打ったる佃島」と呼ばれたように、江戸湾にぽつんと浮かぶ、小さな干潟島だったのである。隅田川デルタに堆積した砂がつくりあげたこの干潟島に、江戸時代のはじめ頃、森孫右衛門に率いられて、摂津の佃村と大和田村から移住してきた漁民によって、白魚漁の拠点が築かれた。このささやかな出来事こそ、今日まで続く築地市場の、歴史的原点にほかならない。

 この小島が生んだ文化と人材が、そののちの江戸の庶民文化の形成に、大きな役割を果たした。江戸の食文化も、庶民のエートス(江戸っ子の心意気)も、すべてがその小島の伝統と関係している。その意味で、この小さな点のような島は、日本の文化伝統にとって、多産な女王蜂のような働きをした。

■江戸のモーゼ
 瀬戸内海民の小集団を引き連れて、東の未開地への移住の旅を指導した、この「江戸のモーゼ」ともいうべき森孫右衛門という人物は、じつに思慮深い、慎重な男だった。家康が秀吉によって、肥沃な三河から当時まだ未開の地だった江戸への移封を命じられて、みずから「討ち入り」というぐらいの悲壮な決意で、葦生い茂るその地へ入った、その直後に、孫右衛門も誘われて江戸に入った。関ケ原の役や大坂の陣のおこるよりも、ずっと以前の話である。

 江戸城は、その頃はまだ、日比谷入江に突き出した岬の突端に立つ、砦ていどの小城にすぎなかった。お城の前に広がっているのは海で、銀座尾日比谷も日本橋も築地も、遠浅の海底に沈んでいた。その遠浅の海のむこうに、小さな干潟が見えた。大阪湾からやってきた漁民たちは、その干潟を利用して、白魚漁の試験操業にとりかかった。

 最初に江戸へ向かった森孫右衛門一行は、十人にも満たない少人数であったが、土地もなければ住む家もなかったから、小石川にあった安藤対馬守のお屋敷の一隅に、仮宿舎をあてがってもらった。そもそもこの江戸移住は、安藤対馬守のアイディアによるものであったし、当時の小石川は海岸線からそれほど遠くなかったので、佃・大和田両村の漁民は、毎日小石川のお屋敷から海へ出勤して、沖の干潟に船を停めては、周辺の海での試験操業を続けたのである。

 彼らはほかにも、お堀の警護と江戸湾へ入ってくる船舶の監視という、別の任務もおおせつかっていた。海賊的な側面ももつ瀬戸内漁民にとっては、こうした任務はむしろお手の物で、漁船仕立てにした軍船を操って、湾内のパトロールと、白魚漁の試験操業とを、同時にこなしていた。

■漁師から魚商人へ
 埋め立てで新しくできた日本橋界隈に、生魚市場(魚河岸)を最初に開設した人々こそ、ほかならぬ佃島の漁民であった。

 もっとも日本橋に魚河岸ができた頃、佃島はまだ未整備の干潟で、人の住める島ではなかったために、摂津の佃村から移住してきた漁民たちの多くは、日本橋小網町のあたりに住んで、漁師をやりながら、生魚の販売にも手を伸ばそうとしていた。

 森孫右衛門はすでに中年をすぎて、隠居の身分だったとはいえ、あいからず精悍で、佃・大和田両村の漁民の統率を続けていた。森一族に与えられていたのは、江戸前の海で白魚を漁して、将軍となった家康のもとに届ける、という仕事であった。

 この頃、摂州出身の海民たちは、漁のやり方にさまざまな工夫をこらしたので、白魚の漁獲量は、お城への納入量をはるかに超過して、増大していた。そこで孫右衛門たちは、余りが出た分の白魚を、市中に市場を開いて販売したいと願い出た。それを機会に、白魚ばかりでなく、スズキやボラやヒラマサのような他の魚も、その市場で販売しようと考えた。江戸にはまだ、大阪の雑喉場のような、公的な市場がなかったから、この提案は大いに可能性があった。

 ただその計画に一つ問題があるとすると、江戸には彼ら以外にも、すでに魚の販売でなりわいを立てようと、小田原や房総などから多くの漁師や魚商人たちが、集まってきていたことである。そういう魚商人たちの開いた私設の生魚市場なら、日本橋小網町にもあって、けっこうなにぎわいを見せていた。そこは芝の漁民が開いた魚市場だったので、芝河岸の名で呼ばれていた。摂州漁民たちは、そこに割り込んでいこうとしていたわけである。


ざこばの朝市オンラインショップより

『アースダイバー 東京の聖地』2:魚河岸文化の原型
『アースダイバー 東京の聖地』1:関西の魚河岸文化

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック