『東インド会社とアジアの海賊』3

<『東インド会社とアジアの海賊』3>
図書館で『東インド会社とアジアの海賊』という本を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくると、アジアの海賊、国姓爺、アヘン戦争とか興味深い史実が見られます。要するに、清朝末期の列強の大陸侵食が興味深いのでおます。



【東インド会社とアジアの海賊】
東インド

東洋文庫編、勉誠出版、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
誰が海賊だったのか?海賊の多様性を歴史から読み解く。17世紀初頭にヨーロッパで誕生した東インド会社とその海上覇権の確立にあたって大きな障壁となった現地の海賊たち。両者は善と悪という単純な図式では表せない関係にあった。東インド会社もまた海賊であったー。東インド会社と海賊の攻防と、活動の実態を明らかにする。

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、アジアの海賊、国姓爺、アヘン戦争とか興味深い史実が見られます。要するに、清朝末期の列強の大陸侵食が興味深いのでおます。

rakuten東インド会社とアジアの海賊

舟山

ポルトガル人や後期倭寇の海賊行為を、見てみましょう。
p147~151
<双ショ密貿易から後期倭寇へ>
 双ショのような密貿易拠点では、お上が公正な取引を保障してくれるわけでも、不正取引を罰してくれるわけでもない。それだけに許棟や李光頭のような有力な顔役による、取引の仲介や仲買が必要不可欠あった。ただし許棟たちは、実際にはけっこうあくどい商売もしており、さらに略奪にも手を出すようになったようだ。
(中略)

 蘇州は生糸や絹の、松江は綿布の主産地である。許棟は蘇州や松江の商人を双ショに引きこんで、外国商人にこれらの商品を略奪させたわけあ。ところが苦しまぎれの弥縫策がすべて裏目に出て、ついには海賊行為に走ることになったのだという。

 そして興味深いことに、ピントの『東洋遍歴記』にも、これに対応する記事が残されている。それによれば、ランサロッテ・ペレイラというポルトガル商人が、「怪しげな数人のシナ人に劣悪な商品で数千クルザードを貸した」ところ、「彼らは商品ともども姿を消し、それを返しもしなければ、彼らの消息さえも掴めなかった」。このためペレイラは、たちのよくないポルトガル人たちを集め、損害を取りもどそうと近隣の村を略奪し、村民を殺害した。

 この事件が原因となり、明軍が双ショを攻撃することになったのだという。ランサロッテ・ペレイラは実在の人物であり、インドで軍功をあげ、その後は私貿易商人として双ショに渡航していたらしい。
 双ショの密貿易では、この手のトラブルがつきものだったようだ。たとえばポルトガル船の乗員として双ショに到来し、のちに明軍に捕縛された2名のアフリカ人は、明朝当局の取調べに対して、次のように証言している。

 ポルトガル人10人と、われわれ13人は、ショウ州や寧波出身の70余人とともに、海外の胡椒や銀を、中国の米・綿布・絹布と交易して、日本・ショウ州・寧波を往来し、時には海上で略奪も行いました。さきには双ショで、ある商人が綿布・紬・湖州の生糸などの代価として、銀三百両を騙しとって姿をくらましました。(『甕ヨ雑集』)

 この密貿易船には、ポルトガル人・華人・マラッカ人・アフリカ人などの乗員が混在していた。彼らは東南アジアと日本・ショウ州・寧波を往来して、南方の胡椒や日本銀を、中国の生糸や織物と交易していた。特に浙江省湖州の生糸というのは、生糸のなかでも特に上質なブランド品である。内地の華人商人は、こうしたブランド商品を売るともちかけて、多額の銀を持ち逃げしたわけだ。

 こうした不正取引を避けるためにも、許棟のような顔役の仲介が必要なのだが、その許棟自身も上述のような事件を起こすのだから厄介である。
 ただし双ショ密貿易の時代には、日本人が略奪や海賊の中心となった形跡はなく、密貿易者たちが「倭寇」と呼ばれることもない。倭寇の活動がクローズアップされてくるのは、明軍の攻撃によって双ショが壊滅したあとのことである。


『東インド会社とアジアの海賊』1:東インド会社の特徴や商品
『東インド会社とアジアの海賊』2:徽州海商と後期倭寇

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