東インド会社とアジアの海賊

<『東インド会社とアジアの海賊』>
図書館で『東インド会社とアジアの海賊』という本を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくると、アジアの海賊、国姓爺、アヘン戦争とか興味深い史実が見られます。要するに、清朝末期の列強の大陸侵食が興味深いのでおます。



【東インド会社とアジアの海賊】
東インド

東洋文庫編、勉誠出版、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
誰が海賊だったのか?海賊の多様性を歴史から読み解く。17世紀初頭にヨーロッパで誕生した東インド会社とその海上覇権の確立にあたって大きな障壁となった現地の海賊たち。両者は善と悪という単純な図式では表せない関係にあった。東インド会社もまた海賊であったー。東インド会社と海賊の攻防と、活動の実態を明らかにする。

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、アジアの海賊、国姓爺、アヘン戦争とか興味深い史実が見られます。要するに、清朝末期の列強の大陸侵食が興味深いのでおます。


rakuten東インド会社とアジアの海賊


まず、東インド会社の特徴や商品などを、見てみましょう。
p8~15
<(1) 東インド会社の基本的な性格>
 東インド会社は、商人や金融業者、それに王や貴族ら財力を持つ人々が東インドとの貿易事業に出資し、事業成功の暁には出資の割合に応じて利益を配分する私的な企業体だった。各国の東インド会社は、共通して、東インドと独占的に貿易を行い、その豊かな物産を取引する貿易によって利益を上げることを究極の目標とした。

 エリザベス女王やオランダ共和国政府は、この企業体が東インドとの貿易を独占することを許した。つまり、それぞれの国において、他の個人や団体が、東インドとの貿易に従事することを禁じたのである。これは、16世紀にポルトガル王権が東インドとの貿易を独占しようとしたことと似ている。

 しかし、ポルトガルの場合は、名目的とはいえ王が貿易を独占したのに対し、イギリスやオランダの場合は、王や政府は民間の企業体に特許状を発行しただけである。王や政府がこの企業体を経営したのではない。むろん、特許状の発行によって、彼らは東インド会社からなにがしかの見返りを得た。

 もっとも、1664年に設立されるフランス東インド会社は、国営に近い組織構造を持っていた。また、時代が進み18世紀後半になると、創建当初とは周辺の事情が大きく変化し、特にイギリスでは政府が会社の経営に深く関与するようになる。

<(2) 東インド会社の組織と運営>
 会社の組織は、大別して、本国に置かれる本社と東インド各地に設置された商館群の二つからなっていた。

 イギリスの会社の経営権限がロンドン本社に集中していたのに対し、オランダの会社はオランダ本国内の6支部と東インドのバタヴィアに権限が分散し、より複雑な意思決定の仕組みを持っていた。遅れてスタートしたフランスの会社は、ほぼ国営に近いスタイルで運営され、政府によって任命されパリの本社にいる総裁が経営責任を持ち、実際に事業を行う拠点として大西洋岸に港町ロリアンが設けられた。このように、各国の会社はそれぞれに適した運営の方法を採用していた。

 オランダの会社は、東インドにおける薬種・香辛料生産の中心地である現在のインドネシアをおさえた上で、さらに東は日本列島から西はペルシャに至るまでの各地に多数の洋商館を設けた。東インドの中心に位置したバタヴィアは要塞都市であり、商館員と兵士が多く居住していた。多くの商館は、バタヴィアと同様に武装されていた。この点で、日本の長崎出島にあった商館は、例外である。長崎では、兵士の駐留は許されず、居住していたのは、商館員や医者、召使といった武力とは関係の薄い人々だけだったからである。

 薬種・香辛料生産の主要産地であるインドネシア方面での活動をオランダの会社に阻まれたイギリスの会社は、その事業の主要な部分をインド亜大陸で行わざるを得なかった。その結果、マドラス、ボンベイ、カルカッタに順次要塞状の商館を築き、貿易活動を展開した。フランスの会社は、活発に活動した期間が限られているが、18世紀前半にはインド各地に商館を置き、イギリスの会社の手ごわいライバルとなった。

 本国にある本社と各商館の間では、恒常的に手紙と文書による情報伝達・共有がなされ、それをもとにして各所で意思決定が行われた。テレビも電話もファックスもインターネットもなく、往復に2年かかる手紙による通信だけを頼りに事業が遂行されたのである。会社の経営陣と各地の商館の責任者たちは、現代の経営者とはよほど異なった意識と責任感をもって事業に携わらねばならなかったはずである。
(中略)

<(4) 東インド会社が扱った商品>
 ポルトガル船がアジアの海に乗り入れた際に、胡椒をはじめとする各種薬種・香辛料を独占的にヨーロッパへ持ち込もうと試みたことはよく知られている。特に、クロウブ、ナツメグ、メイス、シナモンといった高級薬種は、現地の仕入れ値とヨーロッパでの売値の差が大きく、有利な商品だった。ポルトガル船の後を追ってアジアの海に進出した東インド会社も、当初は当然これらの薬種・香辛料の入手を目指した。

 1667~70年のオランダ東インド会社アムステルダム支部の売上の総額をみると、胡椒が29%、上記4種の高級薬種が28.5%を占めており、両者を合わせると、57.9%となる。これに他の薬種・香辛料を加えれば、おそらく総販売量の6割以上が薬種・香辛料によって占められていただろう。

 高級薬種・生産量の産地の多くは、オランダの会社によっておさえられていたにもかかわらず、イギリスの会社も胡椒をヨーロッパ方面に運んでおり、1664年の時点では、その売上は総額の13.2%だった。17世紀後半までの段階では、東インド会社にとってもっとも重要な商品は、間違いなく薬種・香辛料であった。


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