『邪悪なものの鎮め方』2

<『邪悪なものの鎮め方』2>
図書館で『邪悪なものの鎮め方』という本を、手にしたのです。
内田先生には『呪いの時代』という著作があるが、この本もその系統であろうかということで借りることにしたのです。


【邪悪なものの鎮め方】
内田

内田樹著、バジリコ、2010年刊

<「BOOK」データベース>より
「邪悪なもの」と遭遇したとき、人間はどうふるまうべきか?「どうしていいかわからないけれど、何かしないとたいへんなことになる」極限的な状況で、適切に対処できる知見とはどのようなものか?この喫緊の課題に、ウチダ先生がきっぱりお答えいたします。村上春樹『1Q84』の物語構造、コピーキャット型犯罪が内包する恐るべき罠、ミラーニューロンと幽体離脱、被害者の呪いがもたらす災厄、霊的体験とのつきあい方から、草食系男子の問題にいたるまで、「本当ですか!?」と叫びたくなる驚愕の読書体験の連続。不透明な時代を生き延びるための「裏テキスト」。

<読む前の大使寸評>
内田先生には『呪いの時代』という著作があるが、この本もその系統であろうかということで借りることにしたのです。

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国の規模という量的ファクターが語られているので、見てみましょう。
p237~240
<「内向き」で何か問題でも?> 
 日本には巨大な国内市場がある。国内市場限定で製品開発しても、売れればちゃんともとがとれる規模の市場が存在する。世界標準で製品開発するのと、国内限定で製品開発するのでは、コストが全然違う。
 これは例外的に幸運なことなのである。その事態がどうして「内向きでよくない」というふうに総括されて、誰も彼もが「そうだそうだ」と頷くのか、私はその方が理解できないのである。
 いいじゃないですか、国内仕様で飯が食えるなら。

 国の規模という量的ファクターを勘定に入れ忘れて国家を論じることの不適切であることを私はこれまで繰り返し指摘してきた。
 例えば、中国は現在あまり適切な仕方では統治されていない。だが、この国は人口14億である。55の少数民族を擁し、少数民族だけで人口1億4千万人いる。それだけで日本の人口より多いのである。それが「日本と同じように統治されていない」ことをあげつらうのはあまり意味のないことである。

 中国の統治制度を非とするなら、それに代わるどのような統治制度がありうるのか、せめてその代案について数分間考える程度の努力をしてからでも遅くはないのではないか。
 フィンランドが現在たいへん好調に統治されていることを私は喜んで認める。けれども、この好調の重要な要素が「人口が少ない」ということであることを見落とすわけにはゆかない。

 もし、兵庫県が「鎖県」して、兵庫県民の納めた税金ですべてのシステムが運営されていた場合には県民たちのタックスペイヤーとしての当事者意識はきわめて高いものになるであろう。かりに「独立兵庫県」が「高福祉高負担」を政策として掲げた場合には、税金がどのように使われているか、県民の検証はきわめて厳しいものになるであろうし、高負担にふさわしいだけの福祉制度の充実が目に見えるかたちで示されれば、県民たちは黙って負担に耐えるであろう。

 国が小さければいろいろなものが目に見える。国が大きくなるといろいろなものが見えなくなる。
 当たり前のことである。

 だから、小国には「小国の制度」があり、大国には「大国の制度」がある。「小国」では「いろいろなものを勘定に入れて、さじ加減を案分する」という統治手法が可能であり、大国ではそんな面倒なことはできない。だから、大国では「シンプルで誰にでもわかる国民統合の物語」をたえず過剰に服用する必要が出てくる。小国が「したたか」になり、大国が「イデオロギッシュ」になるのは建国理念の問題や為政者の資質の問題ではなく、もっぱら「サイズの問題」なのである。

 「日本の問題」とされるもののうちのかなりの部分は「日本に固有の地政学的地位および地理学的位置および人口数」の関数である。ということは、日本とそれらの条件をまったく同じにする他国と比較する以外に、私たちが採択している「問題解決の仕方」が適切かどうかは検証できないのである。「日本と地政学的地位も地理学的位置も人口数も違う国」で採用したソリューションの成功と比較することにはほとんど意味がない。

 にもかかわらず、相変わらず識者たちは「アメリカではこうである」「ドイツではこうである」「フィンランドではこうである」というような個別的事例の成功例を挙げて、それを摸倣しないことに日本の問題の原因はあるという語り口を放棄しない。

 たしかにほんの2年ほど前までは「アメリカではこうである」ということがビジネスモデルとしては「正解」だったはずであり、その当時、かのテレビ番組に出ていた識者たちも口々に「アメリカのようにしていないことが日本がダメな所以である」と口から唾を飛ばして論じていたかに記憶いている。その発言の事後検証については、どなたもあまり興味がなさそうである。

 しかし、「自分の判断の失敗を事後検証すること」こそ「今採用している問題解決の仕方は別の仕方を採用した場合いには何が起きたかというシミュレーション」の好個の機会である。その機会を活用されないで、いつ彼らはその知性のたしかさを証明するつもりなのであろう。
 興味深いのは、この「日本と比較しても意味がない他国の成功事例」を「世界標準」として仰ぎ見、それにキャッチアップすることを絶えず「使命」として感じてしまうという「辺境人マインド」こそが徹底的に「日本人的」なものであり、そのことへの無自覚こそがしばしば「日本の失敗」の原因となっているという事実を彼らが組織的に見落としている点である。

ウン フェイクと自覚して喋る安倍さんのような識者もいるので、要注意なんだろうね。

さらに、結論のような部分を、見てみましょう。
p243
 帝国主義国家が植民地獲得に進出して、よその人々を斬り従えたのも、「世界市場に進出しなければ飯が食えない」という切迫に彼らが(根拠もなく)煽り立てられていたからである。
 人間たちが「外向き」になったことで人類が幸福になったのかどうか、まだ判定するには早すぎるのではないかと私は思っている。

 「家にいてもたのしく飯が食える人間は」は「世界標準仕様」になる必用がない。そして、私は「家にいてもたのしく飯が食えるなら、どうして寒空に外に出て行く必要があるものか」とこたつにはいって蜜柑を食べている人間である。

 「内向き」が繰り返し問題とされるのは、「内向き」では飯が食えないビジネスモデルを標準仕様にしたからである。「外向き」になるにはアメリカにはアメリカのフィンランドにはフィンランドのそれぞれの「お国の事情」というものがある。その切ない事情についてはご配慮して差し上げるべきであろう。だが、わが日本にはせっかく世界でも希なる「内向きでも飯が食えるだけの国内市場」があるのである。そこでちまちまと「小商い」をしていても飯が食えるなら、それでいいじゃないか。


『邪悪なものの鎮め方』1:アメリカの呪い
『呪いの時代』3:『日本辺境論』の構造的三本柱

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