『日本中世に何が起きたか』2

<『日本中世に何が起きたか』2>
図書館で網野善彦著『日本中世に何が起きたか』という文庫本を、手にしたのです。
裏表紙には「宗教と経済活動との関わりを解明」「網野史学の全容を俯瞰できる名著」とのコピーが出ていて華々しいが・・・
この文庫本が装いも新たに今年(2017年)発刊されたわけで、それだけ売れるロングセラーなのかも♪


【日本中世に何が起きたか】
網野

網野善彦著、KADOKAWA、2017年刊

<「BOOK」データベース>より
「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか」。高校教諭時代、教え子から問われて以来30年余、通説を覆す数々の研究の過程で見えてきたものとは何か。「無縁」論から「資本主義」論へー対極に考えられてきた、宗教と経済活動との関わりを解明。中世社会の輪郭を鮮明に描くと共に、国民国家という枠組みをも超えてゆくべき、現代歴史学の課題を提言。網野史学の全容を俯瞰できる名著。

<読む前の大使寸評>
裏表紙には「宗教と経済活動との関わりを解明」「網野史学の全容を俯瞰できる名著」とのコピーが出ていて華々しいが・・・
この文庫本が装いも新たに今年(2017年)発刊されたわけで、それだけ売れるロングセラーなのかも♪

rakuten日本中世に何が起きたか


「民族差別」や「渡来人」が出ている辺りを、見てみましょう。
p110~115
<中世における聖と賎の関係について> 
■民族差別について
 原始・古代の社会において直ちに日本人、朝鮮人という区別をすることは決してできないわけで、こういう常識の中には現代の日本あるいは朝鮮・韓国のあり方を過去に投影するという非科学的な見方が入りこんでいるといわざるをえません。確かに日本人は現在は相対的には均質度の高い集団であるといえますが、こういう集団が日本列島の中でいつごろ、どういうふうにして形成されてきたか、このこと自体を歴史の問題としてあらためて考えてみる必要があります。差別に関わるさまざまな問題を考える場合も、このような大前提を置いた上で、追求する必要があると私は思っています。

■日本は「島国」か
 私たちが日本の歴史を考える場合、何となく常識的に、日本は「島国」で、周辺を海で隔てられていて、地理的に大陸から孤立した状態にあり、そうした条件から日本人は均質な集団になり、同じような文化を持つようになったのだと考えてきたと思います。しかしこの「島国」という考え方自体、私は、本当に学問的な根拠があるのかどうか、疑問を持っています。

 この考え方は、海が人と人とを隔てるということを前提にいていると思いますけれども、実は時代を遡れば遡るほど、海、湖、川を通じての人と人とのつながりは、緊密だったのです。水上交通の役割は、時代を遡れば遡るほど、大きな意味を持っていたわけで、日本列島には、海を通じて、東からも西からも北からも、あるいは南からも人が渡り、逆にこちらからも人が外へ出ていったということを考える必要がある。その方が事実に即しているのではないかと思います。

 一例をあげますと、博多から対馬まで船で行きますと壱岐経由で5時間ぐらいはかかります。玄界灘の荒海を越えていかなくてはならない。しかし縄文文化はおの対馬まで伝わっているといわれます。しかし対馬と朝鮮半島はきわめて近い。対馬から朝鮮半島は実によく見えるので、船でもおそらく1時間ぐらいで行ってしまうのではないでしょうか。

 先ほどの常識的な考え方によると、日本は島国であり、縄文文化は現在の日本国を構成している島々に最初から一つの均質な文化として存在し、それが日本文化の基盤だといわれるわけですけれども、こう考えると大変おかしなことになる。

 九州から対馬まで海を通して文化が渡っているのに、はるかにそれより近い対馬から朝鮮半島へは文化が渡らない。逆に向こうから対馬に文化が入ってこないということになる。これは、学問以前の問題で、普通の人間の頭で考えてもきわめておかしなことではないでしょうか。これまでの島国論の大変な思い込みがそこによく現れているような気がするわけです。

 実際、最近の縄文文化の新しい研究、たとえば渡辺誠さんの研究によって、縄文時代から朝鮮半島と関わりを持つ、海を主として生活の基盤としていた漁労民の文化があったという事実が明らかになってきました。縄文前期から北九州、山陰、山陽、瀬戸内海の一部、それに朝鮮半島の南岸、東岸、そのあたりを広く覆う漁労民の文化があり、弥生時代の稲作の文化も、こうした人びとの文化の交流の中で日本列島に入ってきたのだという考え方が出てきております。

 弥生時代以降の列島西部と朝鮮半島との交流が、きわめて活発であったことは、よく知られていますが、その交流は遠く縄文時代に遡り得るということがはっきりしてきました。このことは、われわれが、日本列島の社会の歴史、あるいはその中における差別の問題を考える場合にも大変重要な意味を持ってくるのではないかと思うのです。

 もちろん、これまでも古代には、朝鮮半島からたくさんの人が日本列島に渡ってきたことは認められています。かつてはこれを「帰化人」と言っていました。しかし、「帰化」という言葉自体に問題があるので、最近では「渡来人」と言われていますが、多様な技術を持つ移住民がたくさん日本列島に入ってきたことは、よく知られていっます。しかしこれまでの見方は、これを国家と国家の間の交流としてとらえてきました。つまり当時の畿内の政権が、向こうから人を招いた、あるいは百済から人を送ってきたという形で説かれることが多かったので、「帰化」という言葉もそういう見方で用いられていたのだと思います。

 しかし、先ほど述べましたような、縄文時代からの歴史を考えてみますと、この交流は、決して向こうから人が来ただけではなく、こちらからも当然人が行っている。しかも縄文、弥生時代には国家と国家との交流などはほとんど考えられないわけでうから、庶民レベルの交流が行われているわけで、古墳時代以後の移住民もこうしたことを根底に置いて考えられなくてはならないと思うのです。

■庶民レベルの交流
 実際、このように考えなければわからない現象がいくつかあります。たとえば中世の絵巻物を見ていますと、女性たちが、みんな立膝で座っているのですね。現在のように正座はしていない。この座り方、立膝は現在でも韓国・朝鮮の女性の正式な座り方でして、中世の絵巻物を見ていますと、現在の朝鮮半島における女性の座り方をまざまざと思い出すことができるわけです。

 そのほかにも朝鮮半島と日本列島とでは習俗上の類似がたくさんあります。たとえば「石合戦」、河原で石を投げ合う子どもの遊びで、その研究をした私の義兄の中沢厚なども盛んにやったようです。この習俗は西日本では非常に古くまで遡り得るのですが、これが朝鮮の習俗と非常によく似ています。室町時代には、正月15日と5月5日に、大人まで「石合戦」をやっているのですが、朝鮮でも古くから同じときに石合戦をやっています。

 そういう習俗上の類似例はまだまだいろいろあると思うのですが、非常に大事なこと、注意すべき点は、女性の習俗が似ているということです。人のしぐさはそう簡単に変わるものではありません。しかもそのしぐさの中で、女性のしぐさが相互に似ているということは、単に技術を持った男性だけが日本列島にやってきたのではない、もっと深い庶民レベルの中での交流が朝鮮半島との間にあったことを物語っていると思うのです。

 とすると、先ほど述べましたように、遊女とクグツのような特異な集団だけが日本列島に渡ってきて、古代以来「日本人」の中で「化外の民」として差別されていたなどということは、この状況の中では全く考えられないと言わざるを得ないのです。


『日本中世に何が起きたか』1

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