『妄想気分』2

<『妄想気分』2>
図書館で『妄想気分』という本を、手にしたのです。
この表紙には見覚えがあるが、中身については記憶にないのだ…再読になってもいいではないかということで借りたのです。
(帰って調べると、半年前に借りていました)


【妄想気分】
妄想

小川洋子著、集英社、2011年刊

<「BOOK」データベース>より
異界はいつでも日常の中にある。目を凝らし耳を澄ますと入口が見えてくる。そこを覗くと物語がはじまる。創作をめぐるエッセイ集。

<読む前の大使寸評>
この表紙には見覚えがあるが、中身については記憶にないのだ…再読になってもいいではないかということで借りたのです。
(帰って調べると、半年前に借りていました)

rakuten妄想気分


フランス語への翻訳者との付きあいを、見てみましょう。
p89~93
<ローズ・マリーという名前> 
 私の知り合いにたった一人、ローズ・マリーがいる。ただ、長い間顔を合わせるチャンスがなかった。パリと倉敷に遠く離れて暮らしているのだから仕方ない。でも遠く離れていながら、互いの存在は強く意識していて、たとえ会えなくても、特別な絆を築いている実感はあった。

 彼女は私の小説をフランス語に翻訳してくれている。もう6年くらいになるだろうか。毎年1冊か2冊、フランス語版の本が届けられる。そのたびに私は、本当にこれが自分の小説だろうかと、不思議な気持ちになり、表紙の隅々を掌で撫でる。間違いなく自分が書いたものであるはずなのに、どこかよそよそしく気恥ずかしい。長い旅の果てに、予想もしない具合にたたずまいの変わってしまった、恋人を迎え入れるようでもある。

 フランス語は読めないが、一応、1ページ1ページめくってみる。あちらの装丁は紙に腰があり、糊も強力で、手応えがしっかりしている。しばらくするとなぜか、ああここはあの場面だ、これはあの科白だと分かるようになってくる。たとえフランス語に姿を変えていようとも、日本語に込めた執念は消えずにちゃんと残っている。そこでようやく私は、今手にしているのが自分の小説だと確信することができるのだ。

 翻訳者についての情報は、エージェントや出版社から少しずつ入ってきた。日本人の音楽家と結婚したフランス女性。年齢は40代。残念ながらご主人が若くして亡くなり、今は未亡人。息子さんが一人。仕事は早く、決断力も的確。自宅のファックスは故障中…等々。
 ローズ・マリーという名の翻訳家。どんな人なんだろう。表紙に印刷された名前を指でなぞっては、期待をふくらませた。

 思いがけずあちらの出版社からお招きを受け、パリに向かったのは今年(2000年)6月のはじめだった。いつもは初対面の人と会う前は、緊張しすぎて憂鬱になるのに、今回は大丈夫だった。初対面といっても、もうすっかり名前には馴染んでいただろうか。あるいはパリ到着の前日、待ち合わせ場所の確認のために初めて電話した時、対応に出た男性が(恋人だろうか?)小川洋子の名前は十分に承知していますという口調にで、実に感じよく取り次いでくれたことも、大きな安心材料になったかもしれない。

 第一印象は、なんてきれいな日本語を話す人だろう、だった。外国の人が喋る日本語特有の、つっかえるような、リズムが絶えず変調するような感じがまい。それでいて、完全無欠なわけでもなく、彼女なりの個性が織り込まれている。二人で話していると、自分が何語を使っているかという意識が薄れ、二人だけに通じる言葉を交わしているような感じがする。

 ロンドンの古着屋で買ったという黒いジャケットをお洒落に着こなし、ほとんどノーメイクで、ゲランの香水だけをつけている。ブルネットの髪は柔らかく、クルクルに可愛らしくカールしている。

 パリ滞在中、びっしりインタビューの予定が組まれていた。ローズ・マリーと私は、次々と繰り出される無数の質問を順番に片付けていった。1日中、私は自分の小説について、書くという行為について語り、それを逐一ローズ・マリーが通訳していった。私が答えるべき相手はインタビュアーであるはずなのに、いつしかローズ・マリーに向かって直接語り掛けているような錯覚に陥った。インタビューは、私が小説に込めたものが、間違いなく彼女に伝わっていることを確認する作業となっていた。

 ようやく空いた時間を作り出し、モンマルトルの丘にある彼女のお家へお邪魔した。窓からはパリの街並と遠くまで続く空が見渡せ、夜9時を過ぎてもまだ暮れる気配を見せない初夏の光が、部屋一杯に差し込んでいた。その光の中に、ご主人の遺品であるピアノが置かれていた。蓋は開かれ、譜面台には楽譜が広げてあり、ついさっきまで誰かが弾いていた名残を漂わせていた。

 電話を取り次いでくれたのは、息子のユタカ君であることが判明した。地方の高校に通っている彼は、大学の入学試験のために帰省し、また慌しく下宿へ戻って行った後だった。
 「ミネラルウォーターをこんなにたくさん買っておいてくれたの」
 母親の顔をしたローズ・マリーが、台所を指差して言った。ペリエの大瓶が何本も並んでいた。坂道の多い町での重い買物を気遣い、ユタカ君が買い置きしたものだった。

 電話の声を聞いただけだけれど、お母さんのためにペリエのケースを運ぶ、18歳の心優しい若者の姿を、私は鮮明に思い浮かべることができた。コントラバスを弾き、サルトルを読むという彼の、計り知れない未来の輝きが、不意に胸に迫ってくるようだった。

 部屋の柱に、身長を刻んだ鉛筆の跡を見つけた。床から30センチくらいのところにある「ワンワン」と書かれた印は、当時彼が可愛がっていた犬のぬいぐるみの身長。一番高いところの印は、私の口元のあたりにあった。日付は1992年、3月だった。
 「主人が最後にユタカの身長を計った時の印です」
 ローズ・マリーが言った。ご主人は翌月、自宅で息を引き取ったのだった。

 大事な鉛筆の文字が消えないよう、私はそっと柱に手を当てた。自分の小説がフランス語に生まれ変わっているその同じ場所で、別れの悲しみに耐える人がいるということに、思いを致さないではいられなかった。

 タクシーでホテルへ戻る途中、ご主人が眠る墓地の横を通った。ようやく暮れはじめたパリの空に向かい、私は両手を合わせて祈った。


『妄想気分』1:ミーナの行進p180~183

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