『神戸ものがたり』1

<『神戸ものがたり』1>
図書館で『神戸ものがたり』という本を、手にしたのです。
おお 神戸っ子でもある陳舜臣さんが案内する(昔の)神戸とはいかなるものか…期待できそうやでぇ♪


【神戸ものがたり】
ものがたり

陳舜臣著、平凡社、1998年刊

<「BOOK」データベース>より
【目次】
新しい土地/金星台から/異人館地帯/南北の道/布引と六甲/二つの海/軽い精神/あの町この町/そぞろ歩き/水と火/ふりむかず/一月十七日のこと

<読む前の大使寸評>
神戸っ子でもある陳舜臣さんが案内する(昔の)神戸とはいかなるものか…期待できそうやでぇ♪

rakuten神戸ものがたり



(当時の)盛り場として三宮から新開地あたりまで語られているので、見てみましょう。
p163~167
<そぞろ歩き> 
 神戸の盛り場といえば、東の三宮と西の新開地が双璧である。
 海岸通り5丁目にあった筆者の家は、ちょうどこの両者の中間にあたっていた。映画が娯楽の王座だった時代は、映画館の密集した場所がすなわち盛り場であった。その意味では、戦前は新開地のほうが圧倒的につよく、筆者の足も三宮よりは新開地のほうに、より頻繁にむけられたのだ。

 三宮では、三宮神社の境内に、映画館が2軒と寄席が1軒あった。2軒の映画館は、どちらも封切館ではない。封切館として阪急会館が店開きをしたのは、筆者が小学校在学中だったように思う。おなじころ、阪急高架下に、三宮劇場と三宮映画館ができた。たばこの「光」が発売されてまもないころで、この2軒の映画館は「光」の箱とおなじ色に塗られていた。元町駅に近い高架下に映画館ができたのは、それからかなりあとのことだ。三宮界隈の映画館といえばそれだけだった。

 三宮とはいえないが、花隈の坂をおりた高架下に、本庄喫茶店の経営する映画館ができたのは、筆者が中学生時代のことで、十銭でふるい洋画1本とニュース映画がみられた。元町駅西口の阪神会館は、ニュース映画専門館だった。三宮ならぬ二宮に1軒。…周辺地区をあわせても、かぞえるほどしかなかった。

 それにくらべると、新開地は問題にならぬほど映画館が多く、しかもそれが本通りに軒をならべていたから、壮観なものだった。いまでは昔日の面影はない。さびれるとはこのことかと、ため息が出るほどである。
 反対に、三宮ではふえた。新聞会館、国際会館、朝日会館と、めぼしいビルには映画館がついている。むかしは映画館のなかった元町通りやセンター街にも映画館がある。

 新開地については、「神戸の浅草である」とよく言われる。たしかに浅草的なところのある庶民的な盛り場で、ふだん着的なラ気やすさがある。三宮のバー街を「神戸の銀座裏」という人もいるが、こうしたたとえは、そこの雰囲気を知らない人に、わかりやすく説明する便宜的なものにすぎない。「東京の…に相当する」という言い方を、神戸の人間はあまりよろこばない。

 バー街などというのは、きまったタイプを持っていて、全国的に画一化する傾向があっるようだ。神戸らしい雰囲気といえば、マダムやホステスの神戸弁や神戸的性格といった、人間がかもしだすもので、室内装飾や夜の街のたたずまいに、さして特異なものは認められない。銀座で飲んでいて、ふと神戸の三宮にいるような気がすることもあれば、三宮にいて、その反対の錯覚にとらわれることもある。

 三宮のバー街は、生田神社をとりかこんでいる。初めての人でも、生田神社をめあてにいけば、その周囲に「夜の街」が存在するのを発見するだろう。
 とくに生田神社の東がわの一画は、バーの密集地帯である。例の明治2年の写真に、生田の森の東に競馬場がみえるが、そこがいまはネオンきらめき、脂粉のかおりに満ち、馬のいななきならぬ嬌声のきこえる巷となった。競馬場のかわりにつけ馬である。

 狭い通りには、煉瓦筋だのゼウス街だのあるいはなんとか横丁と、勝手に名前がつけられている。しかしなれない人は、よく道をまちがえるらしい。そんなひろい区域ではないが、路地をはいって、さらにもう一つの路地をまがるという場所もあり、いちど行ったバーをさがそうとしてなかなかみつからなかったという話もきく。最近は銀座に似て、バー街にも高層ビルがふえ、立体化している。
 
 新開地の斜陽化が云々されている。都心が東へ移っていることは、盛り場の西の横綱である新開地に影響を与えずにおかない。映画でもっていた新開地が、映画界不振の道連れにされるのは避けがたいことである。

 「三宮がえらい勢いやよってなァ」と新開地の人は言う。
 なかには、誤解している人がいるのではないか。三宮の隆盛のあとを追おうとするなど、とんでもないことである。新開地には新開地独特のムードがあって、それは三宮とは次元がちがう。三宮の亜流となって新開地のもち味をなくすのは、すべてを失うことを意味するかもしれない。

 神戸の西部の衰微は、決定的なものではない。須磨から塩屋、垂水、舞子さらに新しい西神地区にかけて、住宅が激増している。うっかりすると、盛り場としての新開地の地位を、別の土地に奪われるかもしれない。

 三宮を真似るのもよいが、これは新開地のアクの強さを思う存分発揮してから、そのうえにつけ加えるべきものであろう。
 新開地北端の湊川公園という広場を、なんとか活用できないものだろうか。ときにデモの集会所となるが、それだけではもの足りないではないか。

 デモといえば、メーデーなどで大ぜいの人があつまるとき、神戸市では移動便所車を出動させる。公園の便所はもともと数万の人出を予想せずにつくられた。大集会のあったときは、たちまちトイレ不足をきたす。
 「足りなきゃ、よそから臨時のやつをもってくればいいだろう」
ということで、移動便所車が考案された。
 
 とっぴなようだが、いたって合理的な考え方だ。ちっともおかしいことはないのである。外国ではどうだか知らないが、この移動便所は、日本では神戸がはじめて造って使用した。
(中略)

 前例やしきたりなどには、とらわれない。ものそれ自体の価値を、先入観を去って、ありのままに判断する。伝統の慣習に敬意を払わない神戸人の精神の軽さをと、外来事物鑑定人としての修練とが、こうしたなんでもないところに、ひょいと顔をのぞかせる。


ウン 陳舜臣さんには神戸人の本質が見えているようですね♪
南京町のあたりを、見てみましょう。
p170~171
 開港当初から、中国人は外人たちといっしょに神戸にきている。買弁としてアシスタントとして、あるいはコックや使用人としてである。清国は条約国ではなかったので、居留地のすぐそばに住みつき、そこが南京町と呼ばれるようになったことは、まえにのべた。居留地や山手の異人館建設にあたっても、外人技師と日本人大工とのあいだに立って、中国人がかなり働いたことが記録に残っている。

 外人の目からみると、おなじ黄色人種の日本人と中国人は、たいしてかわらなかったらしい。なかには、ことばが通じると思いこんでいた者もいたそうだ。たしかに中国人買弁は、筆談で、いくらか日本人と意思を疎通させることができたのである。

 やがて自前の華僑商社が登場した。当時の年鑑をみると、華僑商社はたいてい栄町から海岸通りにあった。華僑の集団ができると、彼らを相手に、中国ふうの食料品や日用品を売る店が、その近所にあらわれる。元町1,2丁目の南がわ裏手一帯の南京町市場は、こうして誕生したのである。

 筆者の母親は、日本に50年以上も住んでいたのに、死ぬまで日本語がうまく話せなかった。南京町で買物をするので、日本語をおぼえる機会がなかったのだ。
 戦災前の南京町は、石畳の道路の両側から、キャンバスの日よけをかけ渡していたから、いつもうす暗かった。そこにお国ぶりまるだしの飲食店や漢方薬の店などがあって、独特なムードをただよわせていた。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック