通訳、翻訳についてR2 ③

<通訳、翻訳についてR2>
通訳、翻訳について集めてみます。


・『翻訳夜話』
・翻訳のさじかげん
・日本語は天才である(その2)
・映画字幕は翻訳ではない
・翻訳は文化である(工事中)
・通訳案内士試験(工事中)
・読み、書き、訳すこと
・関西弁の通訳
・翻訳困りっ話

R2:『翻訳のさじかげん』を追記



【翻訳夜話】
翻訳

村上春樹×柴田元幸著、文藝春秋、2000年刊

<「BOOK」データベース>より
roll one’s eyesは「目をクリクリさせる」か?意訳か逐語訳か、「僕」と「私」はどうちがう?翻訳が好きで仕方がないふたりが思いきり語り明かした一冊。「翻訳者にとっていちばんだいじなのは偏見のある愛情」と村上。「召使のようにひたすら主人の声に耳を澄ます」と柴田。村上が翻訳と創作の秘密の関係を明かせば、柴田は、その「翻訳的自我」をちらりとのぞかせて、作家と研究者の、言葉をめぐる冒険はつづきます。村上がオースターを訳し、柴田がカーヴァーを訳した「競訳」を併録。

<読む前の大使寸評>
おお 翻訳のプロによる「競訳」が見られるのか…期待できそうやで♪

<図書館予約:(9/08予約、9/17受取)>

rakuten翻訳夜話




【翻訳のさじかげん】
翻訳

金原瑞人著、単行本、2009年刊

<「BOOK」データベース>より
料理に骨董、三味線に歌舞伎…翻訳しているヒマがない?人気翻訳家の最新エッセイ集。三浦しをん氏との「文楽対談」も収録。

<読む前の大使寸評>
翻訳家といえば、言語でメシを食っているいるわけで・・・彼我の国の言語、文化に関する知識は膨大で、薀蓄の宝庫みたいなものか♪

rakuten翻訳のさじかげん
『翻訳のさじかげん』2




<日本語は天才である(その2)>
図書館で『日本語は天才である』という本を手にしたが・・・・
日本語や英語に関する薀蓄には定評があり、なにより、柳瀬さんの本は面白いはずである。

この本は読みどころが多いので、更に(その2)としてして読み進めたのです。

【日本語は天才である】
日本語

柳瀬尚紀著、新潮社、2007年刊

<「BOOK」データベース>より
縦書きも横書きもOK。漢字とかなとカナ、アルファベットまで組み込んで文章が綴れる。難しい言葉に振り仮名をつけられるし、様々な敬語表現や味わい深い方言もある。言葉遊びは自由自在ー日本語には全てがある、何でもできる。翻訳不可能と言われた『フィネガンズ・ウェイク』を見事に日本語にした当代随一の翻訳家が縦横無尽に日本語を言祝ぐ、目からうろこの日本語談義。

<読む前の大使寸評>
日本語や英語に関する薀蓄には定評があり、なにより、柳瀬さんの本は面白いはずである。

(借りたのは2007年刊ハードカバーで、データは2009年刊文庫本のものです)

rakuten日本語は天才である


文字を知った人という意味のモンジシャという言葉が出てきます。
・・・当時としては、なかなかの表現ではないか♪

<「文字者」作の和製漢語>よりp51~55
 ちょっと話が脱線しましたか?
 そうなのです。その脱線です。
 右の七行の文章で使った、後ろから順に―脱線、自費、時間、自習、自慢、独創、自体、独特、定着、世紀、独自、今度―こうした漢語はすべて、37ページに引いた新潮現代国語辞典の3.和製漢語なのです。

 もう少し立ち入りますと、時間と世紀という語は古い漢語にある。しかしその時間は、ぼくらが時間、空間と言う場合の意味ではなく、世紀は「百年」という意味ではありません。そして時間も世紀も、日本語と同じ意味で現代の中国語として使われているのです。いま登場した空間の場合も、やはりそうです。

 『漢語外来辞辞典』という中国の外来語辞典には、すでに中国語として定着した和製漢語が900語近く収録されています。その中には、共産主義や共鳴、入口や出口や簡単など、普通の会話に使われそうな言葉も少なくない。その会話もまた、この辞書には日本製であると記されています。

 古い漢語である出口(しゅっこう)は、口から出すの意ですが、もはや中国の若者には忘れられている古語らしい。いつか中国の青年にそのことを言ったら、「勉強になりました」とお礼を言われました。

 万葉仮名から一気に現代の漢語へ話を進めてしまいましたが、日本語が漢字を天才的に使いこなしてきたことは、おわかりいただけたと思います。

 もう一つ付け加えますと、かつて無一文字だった日本語は、室町時代の後半、16世紀には相当な「文字者(もんじしゃ)」になっていた。『日葡辞書』という、宣教師たちが作った日本語=ポルトガル語辞書があります。長崎で1603年に出版されました。この辞書にMonjixaがいます。

 Monjixa.モンジシャ(文字者)すなわち、monnjiuo xitta mono.(文字を知った者)日本の文字を熟知している人。『邦訳日葡辞書(岩波書店)』
 日本語が文字者という日本語で自分を名乗ったことに、ぼくはなにか心の底から嬉しくなります。

 この章で使った和製漢語について、少し補足しておきましょう。
 簡単(以前は、むしろ「簡短」とか「簡端」とか書くのがふつうでしたが)これは漢字を用いて造られた造語です。

 36ページで、「こんな冗談を言うなんて、常識も良識もない男・・・」と言いました。
 冗談は、もともとあった日本語に冗と談をあてたものです。
 良識はフランス語のボンサンス bon sens(良き感覚という意味です)それを翻訳した。
 常識という言葉も同じように、英語のコマンセンス common sense を翻訳して作った。 漢字を使った日本語の天才的な造語能力を示すほんの数例です。

 簡単や常識は中国語に入りましたが、もちろん中国語では使われない和製漢語もあります。
 その代表例は時計でしょうか。最近は中国へ旅行する日本人が年間340万人もいるそうですから、たぶん中国語の時計がピョン(鐘の簡化字)であるのを知る人は多いはずです。時計は一般には通じないようです。ただし『漢語外来辞辞典』には方言として収録されていますので、時計という実にうまくできた和製漢語もそのうち中国語に定着するのでしょうか。

 そうそう、もう一つ言い忘れていました。
 日本語は漢字に倣って文字を作りました。国字と呼ばれます。
 最近、出番の多い国字は「込」でしょう。振り込め詐欺に一役買っているみたいで、ちょっとかわいそうな気がします。
 
 本章の初めで、榊山潤という人の名を出しましたが、その姓「榊」は国字です。友達や知り合い姓に、辻、畑、畠、樫、椚などの漢字の入っている人がいると思います。いずれも国字です。
 
 ほかにもいろいろあります。
 凧。布巾とか雑巾とかがあったのですが、今はティッシュペイパー、それも略してティッシュになった。頭巾や巾着も、ぼくは言葉では知っていても実際には使ったことがない。巾は「ぬの」です。カゼは風の省略形です。風に乗って布が大空を溌溂と舞っているではありませんか。そうそう、この「溂」も日本製です。

 「ぬの」でなく、風が止まってしまうと凪になる。朝凪、夕凪―日本語特有のいい言葉ですね。英語でMorning calm Evening calm と言っても風が止まった静けさは感じられない。


日本語は天才である(その1)



<映画字幕は翻訳ではない>
いくら映画作りが進化しても、スーパー字幕自動焼付け機はできないだろうと・・・
大使は、この『映画字幕は翻訳ではない』という本を読んで、思ったわけです。
スーパー字幕つくりは、それだけアナログの要素が多い職人技の世界だったのです。
日本でのスーパー字幕入り第1号作品『モロッコ』から説き起こし、生前の著者の最新作まで、まさにスーパー字幕とともに生きてきた職人のお話です。


【映画字幕は翻訳ではない】
字幕

清水俊二, 戸田奈津子著、早川書房、1992年刊

<「BOOK」データベース>より
1行10字、2行まで-。映画字幕の制約はまだまだある。この道50余年の著者が遺した字幕作りの真髄。
【目次】
スーパー字幕業誕生の記/同業10人/スーパー字幕と漢字制限/スーパー談義/文字と言葉/わが映画字幕人生/雑学大百科事典/Go and get’em!/スーパー字幕よもやま話/映画字幕あれこれ/心躍る20文字の世界/字幕談義/『オセロ』のスーパー字幕/字幕スーパーの文法/読み巧者/オン・デッキ/“フランチョー、コム・ヒア!”/男はタフでなければ生きて行けない/英会話/地下鉄/花嫁の父/アンナとミード/原田真人君のスーパー字幕改造談義/シネ英会話Lesson

<大使寸評>
スーパー字幕誕生のときからこの仕事に携わった清水さんのお話であるが…
とにかく、映画への愛と、雑学的な薀蓄に溢れている♪
そして、もちろん翻訳者としての気概も。

rakuten映画字幕は翻訳ではない


次の章を読むと、大使はスーパー字幕を仕事にするには適任ではないかと思ったりもするのだが(簡単に務まるものではないで!)


<スーパー字幕よもやま話>p39~43
 英語が(あるいはフランス語が、イタリア語が)好きで、少々自信もあるのですが、どうしたらスーパー字幕の仕事にはいれるでしょう、という手紙をよこすスーパー字幕志願者があとをたたないので、この機会に「スーパー字幕作者」は「翻訳者」ではないことをはっきりさせておきたい。
 スーパー字幕を仕事にするには語学のほかに三つの条件がどうしても必要である。
 1 映画を愛し、映画を理解する力をそなえていること
 2 日本語、とくに話し言葉に熟達していること
 3 百科事典的な雑知識に好奇心を持っていること
 この三つのうち、1と2は当然のことだが、3の条件については案外忘れられている。この条件はスーパー字幕をつくるときほどではないにしても、翻訳という仕事には多かれ少なかれ必用なことなのである。

 映画で扱う題材は古今東西におよび、多岐にわたって際限がない。場所と時代だけをとり上げてみても、世界中の主要な国々の地理と歴史を、細かいことはともかく、だいたいは心得ていないと、いつどんな映画がとびこんでくるかわからない。もちろん、知らないことは書物などで調べればよいのだが、知識がまったくないと、調べる手がかりがつかめない。
 宇宙もののSFがふえてくると、辞書に載っていないSF用語がポンポンと飛び出してくる。つい先ごの『ジョーイ』のような白血病を扱った映画が、どういうわけか、外国では毎年つくられる。医学用語はどんなにチンプンカンでも耳で聞いているかぎりでは、意味がわからなくても、たいして違和感を感じない。ところがなまじ医学用語をむずかしい漢字で字幕に出すと、観客は抵抗を感じて、ストーリーを追うリズムを乱される。こんなときには字幕に工夫をしなければならない。

 美術、建築、ファッション、スポーツ、ゲーム、宝石、動物、植物・・・・いちいちげていたらきりがない。あらゆることに好奇心を持っていることが必要である。
 ニューヨーク、パリ、ロンドンといういつも映画に登場する都市については、だいたいの街の様子を頭に入れておかないと具合がわるい。ニューヨークでいえば、マンハッタン島は南北に細長く、Avenueが南北に通じている道路、Streetが島を東西に横断している道路、BroadwayはこのAvenueとStreetをつっ切って南の端から北の端にななめに通っている道路で、この道路の42丁目から59丁目までの劇場が集まっている部分をいわゆるブロードウェイと呼ぶくらいのことは知っておく方がいい。
 政治家ならカーター、ベースボールならベンチ、テレビならカースンといったような各界の有名人についてもひととおりの知識を持っていないと、何をいっているせりふなのか、見当がつかないことがある。

 アラン・アーキンの映画だったと思う。題名は忘れたのだが、アーキンがアパートの台所でスリッパか何かを振り上げて、ゴキブリを追いまわし、「こんちくしょう、ミルホウズ」とどなっている。ニクソン大統領時代の末期に製作された映画で、MilhousはRichard M. NixonのMなのである。スーパー字幕には「このニクソンめ!」としたが、ニクソンの名前のMがミルホウズであるという、あまり役にも立たぬことをたまたま知っていたので、「このニクソンめ!」という字幕をつくることができたのである。

(中略)
 私がスーパー字幕の仕事に入ったのが1931年。33年まで1年半の間、ニューヨークにいた。この1年半のニューヨーク滞在がその後の仕事におおいにプラスになった。私の経験からいわせていただくと、持ち前の好奇心でニューヨークの生活という機会を生かし、貪欲にあらゆるものを吸収したのが、ものをいったようである。
 好奇心というものがどんなに大切なものか、読者のみなさんにもよく考えていただきたいと思う。



清水さんは、自分の仕事をスーパー字幕屋とやや卑下して言うが、もちろんそこには職人技を誇る職人気質が隠れ見えるのです。

<スーパー字幕の文法>p63~68
 「字幕スーパーの文法」というタイトルで何か書いてほしいという注文をいただいた。 雑誌の編集者というものはうまい題を考えつくものだ。外国映画にスーパー字幕をつける仕事を半世紀―正確にいうと昭和6年11月からだから、52年間手がけていて、スーパー字幕について話をしたり書いたりしたことはたびたびあるが、「文法」という発想が頭にうかんだことはかつてなかった。だれかがいったのを耳にしたこともない。
 私にいわせると、「文法」などというかたくるしいことばはスーパー字幕にふさわしくない。もっともらしく理屈をつける気ならいくらでもつけられるが、私たち、スーパー字幕屋は、外国映画を映画館のお客にどうしたらわかりやすく見せられるかということだけを頭において仕事をしているので、肩をいからせて理屈をつけたくないのである。すくなくとも、私はそう考えている。

 「文法」を辞書でひくと「文章を作る上のきまり」とある。きまりで結構。つまり、「外国語のせりふを日本語の字幕に置き換えるときのきまり」が「字幕スーパーの文法」ということになる。
 せりふだけではなく、New Yorkとか500B.C.とかいう字幕、名刺、手紙などの文字を日本語字幕にして出すのもスーパー字幕屋の仕事である。この字幕の「きまり」にあてはめてつくらなければならないわけだ。
 ところで、この「きまり」はいつごろできたのであろう。翻訳の歴史は何百年になるのか、何千年になるのか知らないが、スーパー字幕はまだ半世紀の歴史しか持っていない。私はさいわい、スーパー字幕誕生のときからこの目で見てきているので、「きまり」ができ上がったいきさつをじかに知っている。まず、そんなところから話を始めたい。

 日本語スーパー字幕が初めてつけられた外国映画はマレーネ・ディートリッヒ、ゲーリー・クーパー主演のアメリカ映画『モロッコ』である。この映画のスーパー字幕をつくったのは当時「キネマ旬報」主筆だった田村幸彦で、昭和5年暮れにニューヨークのパラマウント東部撮影所まで出かけて行って仕事をした。私はこのひとからスーパー字幕づくりのABCを教えられた。
 そのときの体験を田村幸彦は次のように書いている。

…口で喋る言葉を日本文字に翻訳した際、どうしても翻訳の方が長くなる。だから台詞をそのまま忠実に訳して画面へ焼きつけてみると、人物が喋って終わって、シーンが次のカットへ移っても、まだ文字が出ているというような醜態を演じなくてはならない。喋る時間と文字の出ている時間とをできるだけ同一にしなくてはならない。
 次はどの位の程度まで台詞を翻訳するかという問題である。全部の翻訳をしたのでは、観客は読むのに気をとられ、画面の方への注意が行き届くまいし、あまり少なくては、今度は意味が通じない惧れがある。(「キネマ旬報」昭和6年2月1日号)


 ここで田村がいっていることはいまでもこのまま通用する。これがスーパー字幕の「きまり」の骨組みになり、その上に私たちが実際にスーパー字幕の仕事をしているあいだに得た経験が積み重ねられて、「字幕スーパーの文法」がしだいに固まっていったのである。私たちというのは田村幸彦をはじめ、内田岐三雄、林文三郎、秘田余四郎、柳沢保篤、楢原茂二、それに私といったスーパー字幕草創期に字幕づくりに苦労をした字幕屋仲間で、話し合って決めたわけではないまま使われている「字幕スーパーの文法」がしぜんにでき上がったのである。
 この文法(スーパー字幕づくりのきまり)はふつうの翻訳の場合とだいぶちがう。
 まずだいいちに、田村幸彦がいっているようにしゃべられているせりふを全部訳すのではなく、要約して日本語の字幕にしなければならない。もとのせりふをきちんと訳したのでは読みきれない場合が多い。
Juliet:What's in a name? That which we call a rose
By any other name would smell as sweet.

 ご存じ『ロミオとジュリエット』第二幕第二場のジュリエットの有名なせりふである。どの引用句辞典にも出ていて、ごまかしのきかぬせりふである。坪内逍遥から小田島雄志まで日本語訳はいろいろあるが、中野良夫訳は次のようになっている。
 「名前が一体何だろう。私たちがバラと呼んでいるあの花の、
  名前が何と変わろうとも、薫りに違いはないはずよ」

 『ロミオとジュリエット』は何回も映画につくられているが、われわれはイタリーのフランコ・ゼフィレッリ監督がつくったのがもっとも印象に残っている。ジュリエットはこの映画で売り出したオリビア・ハッセー。歌手布施明と結婚したあのオリビアで、彼女はこのせりふをおよそ8秒でしゃべった。したがって8秒で読みきれるスーパー字幕をつくらなければならない。入場料を払って映画を観にくる観客が8秒で読みきれなければならにのである。試写室で映画を見る先生がたの字幕を読む速度は標準にならないのだ。
(中略)

 俳優はせりふをしゃべるとき、一気にしゃべるのではなく、多くの場合、ところどころ間をおいてしゃべる。字幕をその間にしたがってわけると、しゃべられているせりふにぴったり合ったスーパー字幕ができ上がる。
 このジュリエットのせりふをスーパー字幕にすると、次のようになる。
 「名前が何なの?」
 「バラという花が何と変わろうと」
 「香りは変わらないのよ」

 スーパー字幕は本を読むのと違って読み直しがきかないのだから、1枚1枚の字幕を観客の立場に立って読みやすくつくらなければならない。意味がよくのみこめぬうちに次の字幕があらわれると、頭が混乱してきて、映画を満足に鑑賞できなくなる。「翻訳」の話をしているのにわき道にそれすぎるようだが「字幕スーパーの文法」について語るからにはぜひとも頭に入れておかなければならぬことである。



<遺産の重さと尊さと:戸田奈津子>p116~117
 清水俊二先生が亡くなって今年(注:1992年)は早くも5周忌を迎える年となった。
 特にそれだから、というわけではないのだが、生前、先生と親しくさせて頂いた仲間の間から、誰いうとなく、雑誌などに発表されて、まだ単行本に収録されていない遺稿―それも翻訳をテーマにした文章だけを集めて本にしよう、というアイデアが持ち上がった。
 演劇、野球、その他驚くほどいろいろな分野にご造詣の深かった先生ではあるが、やはり、「清水俊二」といえば、「映画の字幕翻訳家」としての名が世に鳴りとどろいている。もちろん『映画字幕五十年』という、字幕の世界についての唯一の名著を自ら書かれてはいるのだが、つれづれに発表された随筆を集めてみるのも、また意味のあることと思う。とくに近年、翻訳一般、また映画の字幕に興味を持つ若い方々が増えたという状況からも、この大先輩の翻訳に対する考え方、姿勢はきっと参考になるだろう。

 また今回は、本を手にとっていただければすぐお分かりのように、ユニークな体裁で、実際の映画のせりふを多々引用した実践編的な文章も収録してある。これは映画雑誌「ロードショー」に「映画から英会話を学ぼう」のテーマでずっと連載されていたコラムである。「教材」に選ばれている映画は、その時話題になっていた作品で、必ずしも「永遠の名作」ばかりではない。若い読者の題名も知らない映画の1場面を語って、果たして興味を喚起できるかどうか心配だったのだが、試しにまとめてみると、これがまことに面白い。少々型破りな本とはなったが、楽しく読んで頂けると思う。
(中略)
 それにつけても「不肖の弟子」と反省するのだが、清水先生はあれだけの映画の字幕をこなされながら、いろいろな文章を書くことを面倒がらず、むしろ楽しみとしておられた。
 また映画の字幕を仕事にするには「雑学が大事」という、この本でも繰り返し書かれていることを最後まで自ら守っておられた。私など足元にも及ばぬ博学多識、その上に飽くことのない好奇心。82歳で他界されるまで、知識を吸収することに貪欲であられた。好奇心は鈍り気味、文章を書くことに毎度、呻吟する者としては、爪の垢を頂いておけばよかったと思うばかりである。

 いつもは無意識に読んでおられるだろう映画字幕だが、日本の字幕技術が「世界一」だということをご存じだろうか。タイミングの正確さ、リズム。これはたまたま横文字の字幕が入っている映画に出会った時(アメリカ映画の中にロシア語が出るといったようなシーン)、ちょっと意識して見るとすぐ分かることである。
 見事なタイミングで現れ消えてゆく日本の字幕を現在の形に整えたのは、清水先生をその一人とするこの分野の草分けたちで、半世紀を超える彼らの試行錯誤があって、日本の洋画ファンは存在するのである。




<翻訳は文化である> 工事中
翻訳は文化である (丸善ライブラリー)

WEBマガジン出版翻訳
韓日ウェブ翻訳



<通訳案内士試験> 工事中
通訳案内士試験は難しいことで知られている。というか・・・・
難しい試験に通っても、儲かる仕事に就けないことでつとに有名ですね。
この試験を受けるつもりはないのだが、
通訳案内士試験・通訳案内士(通訳ガイド)概要




<読み、書き、訳すこと>
内田先生が「小説を読んで、書いて、訳して」という知的営為について、こう述べています。


翻訳についての二つの対話より
「小説を読んで、書いて、訳して」という営みをほぼ完璧なバランスで行っている人というと村上春樹である。
柴田さんはその翻訳家としてのキャリアを実際には村上春樹の翻訳チェックの仕事から始めた。
そして、「翻訳を舐めるようにチェックする仕事を何冊かやらせてもらって、その中で『あっ、これはこう訳せばいいのか』みたいに、なんとなく思ったことがいっぱいあった。それが私にとっての唯一の翻訳の勉強で、あれは得難い経験でした」(58頁)と回想している。
高橋さんは1979年に横浜の有隣堂で『群像』を立ち読みして、その年の新人賞受賞作を読んだときに、「驚いたのは、方向は違うんだけれども、この人も同じことをやっているなと思った」(36頁)と書いている。
だから、村上春樹はこの対談の「その場に居合わせない三人目の参会者」のようにずっと対談の上に影を投げかけている。
でも、村上春樹を「バランスのよい作家」というふうにすらっと言ってしまってから、それはちょっと変だと気づいた。
「読み、書き、訳す」ことの「バランスがよい」という言い方そのものがかなり特異なことだからである。
というのは、英語圏やフランス語圏の作家たちが、例えば中国語や日本語で書かれた小説を、何年にもわたって日課として(「写経」するかのように)訳すという光景を私はうまく想像することができないからである。
東洋の言語で書かれた小説を訳すことが彼らの小説家としての成熟に必須であると本人が信じ、周りの人もその翻訳を心待ちにしているというようなことが日本語圏以外の地の作家たちの身に起きているのだろうか。
たぶん起きてないと思う。
日課のように外国語の文献を読み続け、それを受け容れ、咀嚼できるように、自国語そのものを改鋳し、押し広げてゆくことは私たちにとっては知的営為のほとんど「基本」である。




<関西弁の通訳>
「・・・・〇△と違うで」
「お♪ 関西弁やんか」

話が込み入ってきて、我々の英語ではらちがあかないので通訳を要望したところ・・・・
出てきたのが関西弁の李さん(女性)でした。
もう仕事で韓国に行くことも無くなったが、いたんですね 関西弁の通訳が。

非正規の庶務スタッフとして従事しているようだが、日本語ができるので必要に応じて通訳として働いていたようです。
鶴橋でも働いたことがあったそうで、そのせいか、彼女の日本語は関西弁なんですね。

仕事上の会話の内容はシビアなんですが・・・
「そんなに怖い顔で話さんといて、そんなん私に言われても」
そらそうや、通訳の彼女に怒っているわけではないのだ。
・・・・この関西弁には、かなり癒されました。

というわけで、慰労の飲み会に誘ったりしました。

仕事では苦労したが・・・・キムさんといい、李さんといい通訳には、良い思い出ばっかりでおました。


<翻訳困りっ話>  
「翻訳困りっ話」という本を図書館で借りたが・・・・
まずタイトルがいけてるし、読んで楽しい言語プロの本である。


【翻訳困りっ話】
翻訳
柳瀬尚紀著、白揚社、1980年刊

<目次より>
1 翻訳困りっ話
・失われた右手の訳語を求めて
・おまわりさんと翻訳者の関係
・ある老女の怒り
・ある死父の娘と『死父』の訳者との関係
・時差痛衾 etc.

2 若き日のある翻訳家の焦燥―軽妄的な翻訳談義
・本気であせってたんですよ
・深い仲
・すなおに訳すことが原点
・贅をつくした言葉の饗宴
・‘I’m sick of that cat’…etc.
<付録>
・笑いの言語生活者資格認定試験
・アリスの生き物探し

<大使寸評>
タイトルが秀逸であるが、読んで楽しい言語プロの本である。さすがに言語プロのエッセイは違うなぁ♪

Amazon翻訳困りっ話


この本の出だしがなかなか読ませるので、紹介します。
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<失われた右手の訳語を求めて>p9~10
 エリカ・ジョングの『あなた自身の生を救うには』の翻訳について書いたエッセイで「ぼく自身の誤訳を救うには」と題するエッセイを書こうかなどとひょいと剽軽をきどったのがきっかけで翻訳を本題に本心と本音を吐きつつ破局的な発生を連発する連載をしてみないかというさりげない誘いに巧みにたぶらかされたような具合で瓢箪から駒という諺はあっても剽軽から困るということはざんねんながら国語辞典に採録されていないけれど剽軽から困るのが生来いちじるしく性交技能はともかくとしてとにかく社交技能に欠陥のある自分の常であるわけで現にこんな乱脈をきわめた文章というより文障を書きつけて自分でも収拾がつかなくなりつつあるのがわかって困ってしまいとりあえずタイトルを「翻訳困りっ話」とすることを決めて句点をうつ。

 しかし句点を打ったところで考え直すと、さほど気の利いたタイトルとも思えない。もっといいタイトルがありそうだ。たとえば―「翻訳恥のかきっ話」「翻訳笑いっ話」「翻訳腹の立ちっ話」「翻訳憎まれっ話」などなど。
 
「翻訳恥のかきっ話」には、むろん事欠かない。活字になってしまった恥もあるし、校了になる直前に気がついて白日のもとにさらさずにすんだ恥もあるし、原稿の段階で編集者に指摘されてその編集者の前で頭をかくだけでおさまった恥もあるし、いったん原稿用紙に書きつけてから尿意を催してそれをすっきりさせてから机に戻るとふと気になって辞書を引いてみたらとんでもない誤訳を犯していてあわてて書き直し幸い深夜で誰にも見られていなかったとひとりで赤面しながら胸をなでおろし、ところがあいにく、同居している三匹の猫というより筆者が同居させていただいている三匹の猫様のうち頭脳的にはいちばん遅れをとっていることを公認されたぶん自認もしているはずのおばあちゃんという名の日本猫があくびをして目をさましたついでにいかにも侮蔑的な眼差しを投げかけて、飼われ主としては(筆者は猫の飼い主でなくて飼われ主である)なんともバツの悪い思いをした、そんな恥もある。

 しかし、そうしたすでにかいた恥をまた書くというものはどんなものか。旅の場合にかぎらず恥というものは少なくとも記憶からかきすててしまうのが賢明で、わざわざ恥を書きためることもあるまい。恥を書きためて原稿料をもらうほど生活苦にあえいでもいない。それに恥をかいたことについて書くことがサマになるのはその本人が多少は世の中で尊敬されているような場合で、筆者などは翻訳という場以外の私生活でも恥のかきっぱなし、それに第一、翻訳などしている者が世の中で尊敬されるはずはない。それは大学教師がもはやこの世で尊敬されないのと同じことだが、それは大学教師も翻訳者も偉くないからで、それは作家や詩人になる才能にも素質にも恵まれない者が作家や詩人について教える大学教師になるからであり、その大学教師としてもきちんとやっていけない、つまりきちんと朝大学に出かけきちんと老教師に挨拶してきちんと授業時間を消化してきちんと会議に出席してきちんと給料をもらうというようなただそれだけのことさえ満足にできない者が翻訳など手がけるようになるからであり、それは明らかに筆者の独断と偏見にみちみちた観察であり論法であり、それは筆者自身が詩人にも小説家にもなれないからいつのまにか大学教師になってみたものの大学教師としてはいまいったようなきちんとしたことができないのでそういうきちんとしたことをきちんとやあることを自己の人格と身元証明のよりどころとしている人たちの顰蹙を買い、そしてとりわけ英米の一流から五流までの大学教師の研究書なるものの断片的紹介と受け売りによって構成する学術論文というものを猫様にたっぷり遊んでいただく時間があっても書きはしないので学術的学問的能力を疑われてそれで仕方なくしょぼしょぼと翻訳などやっているからなのだが、それは話としては脱線であってようするに翻訳者はべつに偉くもなんでもないのだということをいいたいわけで、それはわが国の翻訳の歴史といったものをふり返るとそこに確かに残っているのは杉田玄白ただひとりであるということからもわかる。

*********************************************************************
アハハ♪ じゅげむじゅげむを彷彿とさせる名文(迷文?)ですね。
この文体が、軽妙洒脱な著者を連想させるが、どんな人なんでしょうね♪


韓国初、日本人演歌歌手デビュー、堂本貴子さん!

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