『日本人の「住まい」はどこから来たか』5

<『日本人の「住まい」はどこから来たか』5>
図書館で『日本人の「住まい」はどこから来たか』という本を手にしたのです。
なんか既視感のある本だけど、再読に耐える本という見方もできるわけだし、まっいいかと借りたのです。
帰って調べてみると、今年の2月に借りていることが分かりました(イカン イカン)。
…で、この記事を(その4、5)としています。


【日本人の「住まい」はどこから来たか】
住まい

吉田桂二著、鳳山社、1986年刊

<「BOOK」データベース>より
歴史をちょっとひもとけば、日本人の衣食住は中国や朝鮮の影響ぬきには考えられないはずなのだが。では、おまえは日本以外の東アジアの家がどうなっているのか知っているのか、と自問して愕然とした。何も知らない。建築の専門家ずらをしてこんなありさまだ。―町並み保存運動に情熱を傾け日本各地の伝統的な民家を訪ね歩いた旅の建築家である著者は、日本人の住まいの源を求めて海を渡った。韓国、中国、タイ、マレーシア、インドネシア…。そして彼の地で触れた人々の生活と住まいに驚くべき類似性を発見する。日本の伝統とは何かを問う異色ドキュメント。

<読む前の大使寸評>
なんか既視感のある本だけど、再読に耐える本という見方もできるわけだし、まっいいかと借りたのです。
帰って調べてみると、今年の2月に借りていることが分かりました(イカン イカン)。
…で、この記事を(その4,5)としています。

amazon日本人の「住まい」はどこから来たか


日朝の住まいの違いの続きを、見てみましょう。
p36~37
<なぜ南方系と思える高床の家に住むようになったのか> 高句麗はもちろん、百済も新羅も騎馬民族国家だという。日本もまたそうであったらしい。騎馬民族の源流は中国北東部から蒙古にかけてのステップ地帯で、そのあたりから農耕民族の領域への侵入を歴史を通じて絶えずくり返してきた。

 中国の万里長城はそうした侵入をはばむための防御壁としてつくられたが、それでもなお元や清という征服王朝をゆるすなど、騎馬民族の絶えざる侵入は中国史上の大事件をいくつも引きおこしてきた。朝鮮半島においても状況は似たようなことであっただろう。

 高麗への遼とそれに続く金の侵入、また元の侵入は殆ど全土に及んだ。李氏朝鮮では女真、後金、清の侵入がある。しかしこうした国家成立後のことではなく、朝鮮における国家の成立そのものがすでに騎馬民族による征服王朝だったのではないか。日本における国家の成立にも同様なことがいわれている。
(中略)

 百済や新羅や日本の古代王朝が騎馬民族による征服王朝だったとすれば、そこで上層階級を形づくった彼らがなぜ南方系と思える高床の家に住んだのであろうか。南方からきた支配者が高床に住むのは自然だが、大陸から来て高床というのは素直に理解しにくい。そこで考えられる仮説は、彼等が征服王朝をきずく以前、すでにこのあたりでは稲作が定着していて階級分化も相当に進んでおり、酋長に相当する連中は南方系の高床の家に住んでいたのではなかろうか。これら稲作民は南方系と想定するわけである。

 こうした農耕民族を支配した征服王朝の連中は、酋長どもが彼等より高いところに住んでいることは我慢がならなかったのであろう。なにしろ天をあがめる民族なのである。高さが身分を示す尺度と考えるなら、生活習慣としてなじみはなくてもより高い高床の家に住まねばならなくなる。かくて騎馬民族による征服王朝は高床の家に住み、被征服民族の中に埋没してゆくという図式は成立しないだろうか。

 こう考えてくると、朝鮮半島における国家の成立が日本よりも先行し、その影響がおよんできて日本に国家が成立したということになる。その頃の日本の文化は成立過程が同じだったことで百済や新羅と殆ど変わりがなく、かつひと汽車もふた汽車もおくれた状況だったであろう。温突が一般化する以前の朝鮮の家は日本の古代の家をもって想像すれば、あたらずといえども遠からずであろう。しかし温突がその後の彼我の家を違ったものにしてきた。


『日本人の「住まい」はどこから来たか』1:日朝の縁側についてp66~68
『日本人の「住まい」はどこから来たか』2:日中における風流の思想p163~167
『日本人の「住まい」はどこから来たか』3:引戸主体の形式こそ日本独自p305~309
『日本人の「住まい」はどこから来たか』4:日朝の住まいの違いp26~29

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