『南方マンダラ』

<『南方マンダラ』>
図書館に予約していた『南方マンダラ』という本を、待つこと1ヵ月でゲットしたのです。
ぱらぱとめくると、自然科学や民俗学や宗教など、まるで万華鏡のような有様で・・・
知の巨人の秘密の一端でも見えるかも♪


【南方マンダラ】
南方

南方熊楠, 中沢新一著、河出書房新社、1991年刊

<商品の説明>より
世紀を超えてなお知の巨大な風貌をとどめる南方熊楠。日本人の可能性の極限を拓いた巨人の中心思想=南方マンダラを解き明かす。中沢新一の書き下ろし解題を手がかりに熊楠の奥深い森に分け入る。

<読む前の大使寸評>
ぱらぱとめくると、自然科学や民俗学や宗教など、まるで万華鏡のような有様で・・・
知の巨人の秘密の一端でも見えるかも♪

<図書館予約:(5/12予約、6/16受取)>

amazon南方マンダラ


この本の冒頭を、見てみましょう。
p9~12
<解題 南方マンダラ>
 南方熊楠によって、彼の「南方曼荼羅」に明確なかたちがあたえられるまでには、十年近い歳月がついやされている。もちろんその間、ずっと熊楠がこの問題を考えぬいていたというわけではない。彼はいちどきに、さまざまな問題を同時に思考するタイプだったので、ひとつのものごとを考えていても、そこに別のことを思考しなければならない必要がでてくると、前の思考は途中で中断したままにしておき、ずいぶんと時間がたってから、前の思考を再開続行するということが、よくあった。だが、「南方曼荼羅」の場合は、それを考えぬく熊楠の持続力には、ふつうでないものがある。

 ロンドンから熊野へ。彼はその間も、驚くほどの精力と時間をついやして、粘菌をはじめとする隠花植物の採集と研究をおこなっていた。人類学や民俗学や宗教にかんするおびただしい書物を読破し、抜き書きをおこない、大事なことはそのまま記憶するという作業も、あいかわらず続けていた。

 しかしその間も、彼は自分の考える新しい学問に、一貫性をもった思想のみちすじをあたえたい、と考えつづけていた。そして、そのたびに彼の頭脳には「南方曼荼羅」についてのアイデアが、とりとめもなくわきあがってきた。たくさんの思想の萌芽が、つぎつぎにわきあがってきた。しかし、マンダラと呼ぶにふさわしい統一をそこにあたえることは、さすがの彼にもなかなかできなかった。十年目に、ようやくそれにひとつの明確なかたちがあたえられるようになった。明治36年から翌年にかけて、緑濃い那智の山中で「南方曼荼羅」の思想は生まれた。熊楠はそのとき、37歳。日本人は、まだ彼の存在を知らなかった。

 その当時、この「南方曼荼羅」の誕生を見届けていたのは、熊楠のほかあには、たったひとりの真言僧しかいなかった。土宜法竜である。彼にうながされて、南方熊楠はこの巨大なテーマに取り組みはじめた。そして熊楠が、自分の思索の成果を報告したのも、彼ひとりにあててだった。熊楠はそののちも、それについて他人に語ることがなかった。そのために、土宜法竜と南方熊楠の往復書簡が発表されるまで、「南方曼荼羅」の思想は、まったく知られることがなかったのだ。

 彼の身近にいた人たちのほとんども、そんなものが存在しているという事実さえ、知らなかった。熊楠の奔放自在な学問や行動の根底に、ひとつの深遠な一貫性をもったマンダラの思想が横たわっていたことに気がついている人も、ほとんどいなかった。またそれがどんな可能性を内蔵したものであるかを、じゅうぶんに解き明かした人もいなかった。つまり、「南方曼荼羅」の思想は、ごく最近にいたるまで、日本人にとっても、ほとんど未知のものだったのである。

 しかし、20世紀末を生きる私たちには、いまやはっきりとそれが見える。かつて日本人によって考えだされた、もっともユニークで、もっとも深遠で、もっとも未来的な可能性を秘めた学問論、表現論、科学論が、ここにある。これを解読する努力の中から、きっと私たちの未来を開く、思想の鍵が取り出されてくるに違いない。「南方曼荼羅」がうまれてから、すでに90年近い歳月が流れた。それは、20世紀末の人間による解読を待ちながら、いまも生まれたときと同じ、熊野の森のほの暗く、深い緑を呼吸しつづけている。


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