『日本の「アジール」を訪ねて』

<『日本の「アジール」を訪ねて』>
図書館に予約していた『日本の「アジール」を訪ねて』という本を、待つこと約4ヶ月でゲットしたのです。
この本は日本の底辺をめぐって綴った民俗学的フィールドワークであり、大使のツボがうずくわけでおます♪


【日本の「アジール」を訪ねて】
アジール

筒井功著、河出書房新社、2016年刊

<「BOOK」データベース>より
どこに住み、暮らしたのか。戦後まだ、いたるところで、乞食、サンカ、病者、芸能民、被差別民などの漂泊放浪民が移動生活をおこなっていた。かれらが、社会制度をはなれ、生活のよすがとした洞窟などの拠点「アジール」を全国に訪ね、その暮らしの実態を追うノンフィクション。もうひとつの戦後昭和史の貴重な記録。
【目次】
第1章 サンカとハンセン病者がいた谷間/第2章 土窟から上る煙/第3章 大都市わきの乞食村/第4章 カッタイ道は実在したか/第5章 洞窟を住みかとして/第6章 有籍の民、無籍の民/第7章 川に生きる/第8章 地名に残る非定住民の歴史

<読む前の大使寸評>
この本は日本の底辺をめぐって綴った民俗学的フィールドワークであり・・・・
大使のツボがうずくわけでおます♪

<図書館予約:(1/25予約済み、6/04受取)>

heibonsha日本の「アジール」を訪ねて


まず土地勘のあるドングリ国周辺のアジールを、見てみましょう。
p65~70
<「ともにゆく人」清水精一>
 『大地に生きる』は昭和9年(1934)、同朋園出版部から上梓されている。同朋園は、清水がミカン山の乞食たちを普通の生活者にするため、兵庫県武庫郡山田村上谷上(現神戸市北区山田町上谷上)に建設した更正・授産施設であった。同書は、そこを版元にしているが、おそらく自費による出版だったと思われる。清水は、この2年後にも『共にゆくもの』と題した単行本を、同じ形で出版している。清水の著書としては、この2冊があるだけのようである。

 両書とも清水精一の一種の自伝だが、「魂と求道の記録」といった趣きがあり、そこでは著者の経歴などはほとんど語られていない。清水が「大阪の高槻」で生まれたことは記されていても、それがいつのことかわからないほどである。著者はまた自らの体験を、しばしば綿密に述べているが、それらの時期がはっきりしない場合も少なくない。精神的、形而上的な世界へのこだわりが強すぎて、時期とか場所については不自然なくらい関心を欠いていたといってよいだろう。

 清水の経歴などに触れた記録は、わたしが気づいたかぎりでは皆無に近い。それで、大阪・天王寺の乞食村についての理解を少しでも助けるためと、この「求道の人」というべき人物の生涯を紹介するために履歴書のようなものを記しておきたい。

 典拠は右の2冊の本と、遺族の方々のお話である。ただし前述のように、著書ではいつ、どこでのことか判然としない場合も多く、また身内の中には詳しく語ることを好まれない方もいる。
 
 清水は長く乞食とともに暮らした人であり、それは彼らの救済のためだったとはいえ、そのような生き方に反対した実弟は血書をしたためて自殺している。清水の行為は、一族にとって必ずしも好ましいことばかりでもなかったのである。

 清水精一師(以下、こう呼ぶことにしたい)は明治21年(1888)10月、現在の大阪府高槻市野田で生まれている。家は、かなりの土地を所有する地主であり、高槻でも有数の旧家であった。同34年の年末、師が数えの14歳のとき、この一帯で小作争議が起き、隣村では小作人に襲われた地主の1人が死亡、1人が重傷を負っている。父は襲撃を恐れて身を隠したのだった。その折り、朝夕、笑顔で接していた小作人たちの態度の急変が、師にさまざまのことを考えさせるきっかけになったという。

 清水師は、前記の2著書では自分の学歴にはいっさい触れていない。ただし、新潟県新発田市の骨董・古美術の店「宝珠庵」の経営者がインターネットに載せているブログによると、京都帝国大学に学んだということである。何かの出典あってのことであろう。

 師は、そのあと京都・伏見に酒造会社を設立、経営に当たっていたらしい。しかし師は、この種の事業には天性、不向きな人間であった。おそらく1,2年で、その職を退き、大正元年(1912)の秋、京都・嵯峨の臨済宗天龍寺の寺男になっている。数えの25歳であった。半年ほどで雲水(行脚僧)になっているが、正式の僧ではなかった。同寺にいたのは足かけ3年であった。

 大正3年の秋から同5年の春にかけて、「丹後と若狭と山城の3州が連なって居る深山」で独居生活を送る。しかし、丹後と若狭は接しているが、山城はいずれとも少し離れている。どうも、そこは京都府の北部、丹波高地のどこかだったようである。とにかく、人の姿など全くない山中に粗末な小屋を建て、松の葉や木の実、自然の果実のみで腹を満たしつつ、座禅などの修行に日を送ったのだった。

 大正5年(1916)の春に山を下り、大阪の貧民窟で暮らしたあと、同年12月に初めて天王寺ミカン山の乞食村を訪ねている。そうして、「ドン底のドン底から湧き出て来る真情の水を味はねばならぬと感じ」(『大地に生きる』)、翌年2月から彼らの仲間になるのである。30歳であった。

<親分と娘>
 もとのミカン山すなわち、いまの大阪市立大病院の現住所は、大阪市阿倍野区旭町1丁目になる。天王寺区は、すぐ北側のJRの線路より北になる。しかし、清水精一師がミカン山で暮らしはじめたころ、そこは東成郡天王寺村に属していた。つまり、まだ大阪市外であった。

 その小高い雑木の林に天幕や小屋を掛けていた乞食は、記述のように300人ばかりもいた。親分を「チャン」と呼んでいた。それは大阪や近隣の同種集団のあいだでも同じだったが、この呼称が使われていた範囲について、わたしは確認していない。

 大正6年(1917)当時、ミカン山のチャンは関東の人間であった。埼玉県・秩父の出身か、明治32年ごろ娘が生まれてたとき秩父にいた。そうして、大正の初めまで関東地方で暮らしていた。

 チャンの一家は代々乞食であった。何代もつづけて、乞食を稼業としてきたのである。それは無籍であることを意味した。おそらく、家族全員が文盲であったろう。清水師は、ミカン山の住民60人から乞食になった「動機」について聞き取りをし、その結果を『大地に生きる』に書き残している。

 賭博癖     15人
 ライ病     2人
 飲酒癖     15人
 父母による理由 5人
 精神病者    2人
 親譲り     21人

 右の「父母による理由」とは、「継父母などの虐待」を指している。「親譲り」が代々乞食のことで、聞き取り対象者の三分の一ほどを占めていたことがわかる。全員を調べても、その比率はほぼ同じになったのではないか。とにかく、もっとも数が多く、かつ集団内での勢力も他を圧していた。
(中略)

 チャンには妻と、少なくとも娘が二人いた。子供のうち上の娘がミカン山にいたことは、はっきりしている。清水師は、その女性と結婚しているのだから、チャンやその家族について詳しく知っていたはずである。しかし、著書では彼らのことに、ほとんど触れていない。一つには、チャン一家への配慮からだと思われ、また一つには自らの家族、親族への心ない中傷を避けたかったためではないかと推測される。


更に読み進めました。
p75~76
<乞食村を出て>
 大正9年、清水師は行政に働きかけて、70人の大部分を大阪市と天王寺村の掃除夫に雇ってもらう。さらに、その翌年には若い者たちに手に職をもたせようと、大阪・飛田の菓子屋と交渉して、そこへの就職も実現させている。つづいて体力のある者を静岡県富士郡の富士山麓へ送り込んで、開墾に従事させたこともあった。ほかにも、二ヶ所くらいに一部の人びとを移して、更正・授産施設としていた。

 彼らをひとまとめにしたのは、昭和5年(1930)のことである。兵庫県武庫郡山田村上谷上(現神戸市北区山田町上谷上)に1万坪の山林を確保し、ここを開拓して農地にすることにしたのだった。もちろん地内に住宅も建設され、それらを含めて「同朋園」と名づけられた。そこは神戸有馬電車の谷上駅から北へ200メートルばかり、いま兵庫県立上野ケ原特別支援学校ひかりの森分教室が建っているところに当たる。

 清水師の一家も、ここに住んでいた。このころになると、師は社会活動家として一部の人びとには、よく知られていたようである。しばしば各方面から講演を依頼され、あちこちを飛びまわる日々がつづいていた。留守を守ったのは妻であった。前にも記したように、山田村へ移る直前の昭和4年(1929)から同10年にかけて4人の子供が生まれている。その世話に加えて、同朋園の運営もあった。長女は平成26年3月、わたしの電話取材に対して次のように話していた。

 「父は講演などで留守がちでした。母はそのあいだ家と園とを守っていましたが、病身でしたから、とても苦労をしました。父は、自分たちには厳しい人でした。だけど、いつも人には優しくしなさいと言われていましたね」

 この女性は生涯、独身であった。母を助けたいという思いからだったかもしれない。

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