『ロゴスの市』2

<『ロゴスの市』2>
図書館で『ロゴスの市』という小説を、手にしたのです。
翻訳家と同時通訳の言語学的な愛の形ってか・・・・大使のツボがうずくのでおます。


【ロゴスの市】
ロゴス

乙川優三郎著、徳間書店、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
言語の海を漂う男と女ー翻訳家と同時通訳の宿命的な旅路。静謐な熱情で女を見守る男。女は確かなものしか追わない。切なく美しく狂おしい“意表をつく愛の形!”

<読む前の大使寸評>
翻訳家と同時通訳の言語学的な愛の形ってか・・・・大使のツボがうずくのでおます。

rakutenロゴスの市


この小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。
向田邦子の死が出てくるあたりです
p61~65
 次の日は朝から雨が降りしきり、ごろ寝と雑談を繰り返して過ごした。昼食は女性たちがこしらえたおにぎりを分け合い、それなりに愉しい時間が終ると、それぞれの部屋から恨めしい景色を眺めた。午後も雨が上がる気配はなく、ゲームにも飽きたころ、
 「成川君、ちょっといいかしら」
 と悠子が男たちの部屋を覗いた。弘之が立ってゆくと、彼女は笑んでみせたが、小刻みに震えているのが分かった。
 
 「さっきからラジオが繰り返しているんだけど、台湾で飛行機が墜落して、日本人の乗客の中にケイ・ムコウダがいるの。たぶん彼女だと思う」
 それだけ言うのにも悠子の唇は震えた。
 「どうしよう」
 「どうするって、ここでは話せない、雨だが外へ出よう」
 彼はなんのあてもなくそう言った。向田の不運も悠子の動揺ぶりも予期しないことであった。傘を差して促すと、彼女は腑抜けのようにもたれてきた。
 
 民宿から一足のところに瀟洒なリゾートホテルが見えて、海に向かってテラスが張り出している。
 雨水の流れるアスファルトの路を歩いてゆくと、低い階段を設けたホテルのエントランスはどこよりも明るく、その先に待つロビーは最も安全な場所に思われた。

 悠子を先に入れてからカーペットの床に立つと、そこは海側の壁一面がガラス張りの空間で、レセプションから離れた奥の方がティーラウンジであった。そろそろチェックインの時間であったが、キャンセルが出たのかロビーはすいていて、悠子はガラスの方を向いたまま棒のように立っていた。

 「コーヒーを飲みたいのですが」
 さりげなく歩み寄ってきたホテルの人に言うと、レストランは準備中というので、彼らは人のいないラウンジの片隅で温かいコーヒーをもらった。晴れていれば贅沢なオーシャンビューであろうが、ガラス越しに迫る海は荒れて、すぐそこに波頭が見えていた。

 「素敵なホテルね、お蔭で今日という日の記憶が鮮明になる」
 悠子が言ったが、目の前のテーブルしか見ていなかった。外が暗く、空調で涼しいせいか、秋の夕暮れに放り出されたような物憂さであった。わけの分からない不安の中から彼は言葉を絞り出した。

 「ラジオの放送は間違いないのか、ケイは邦子ではないかもしれない、同姓同名ということもよくある」
 「未確認情報と断っていたけど、確認がなければあんなに繰り返さない」
 「それにしても君がこれほど衝撃を受けるとはね、なにか深いわけでもあるのか」

 そう言ってしまったあとで、人の死を哀しんでいる女に理由を訊くほど愚かなこともないと気づくと、情けなく、溜息が出た。悠子は黙っていたが、しばらくして唇を開いた。
 「なんと言えばいいのか、会ったこともない人なのに、父が死んだときより哀しい、父には悪いけど本当よ」
 「お父さんのときはまだ子供だったからさ」
 「今だって子供よ、あのときからずっと人の死について考えているのに何も見つからないのだから、父も向田も生き切ったとは言えないし、運命や宿命という言葉では片付けられない何かがある。いつか彼女が私の探し物を書いてくれるような気がしていたの」
 「分かるような気がする」
 「うそ」
 彼女は涙を溜めていた。

 向田より悠子の精神構造に興味があって弘之も短篇集を読んでみたが、男には幾分気味の悪い話が多く、それでいてはっとさせられる冷徹な視線を感じた。窮屈な現実と向き合う女はこれに酔うのだろうと思った。

 女性にそこまで見透かされているのかという男の怖れとともに、凡庸な人間がかすめて通り過ぎている穴ぼこだらけの人生も見えてくる。恐ろしく小さな世界を掘り下げながら、美と醜を絡めて、ちょっと見には明るい日常の闇を照らしてみせるのが向田邦子ではないのか。それが彼の印象であったが、日常の瑣末な時間ほど人間らしさの表れる舞台もないのであった。

 悠子が身近なものとして受けとめているのは死を前提にした生かもしれないという気がした。知っている人の物語を読んでいるようだと話したことがあったが、父親の死と無縁ではないだろう。しかし彼女の若さで死を念頭に置いて生きていくのはむずかしい、というより重すぎる。向田の小説があるから、彼女はいっとき安心するのかもしれなかった。

 弘之の耳に、ラウンジに流れている静かな音楽が聞えてきたのはしばらくしてからである。ギターのボサノバであったが、外の雨と波音が美しい旋律を濁して残酷な音にも聞える。
 「私ね、中途半端に死ぬのが怖いの、いつか死ぬのは仕方がないけど、思い切り生きてからにしたい」
 彼女はうちに燻るものを吐き出した。
 「きっと向田もそう思っていたはずよ、だから自分のことのように恐ろしい」



『ロゴスの市』1

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