『イネが語る日本と中国』3

<『イネが語る日本と中国』3>
図書館に予約していた『イネが語る日本と中国』という本を、待つこと5日でゲットしたのです。
図書館に予約するには、この種のやや専門的な本が狙い目かもね♪


【イネが語る日本と中国】
イネ

佐藤洋一郎著、農山漁村文化協会、2003年刊

<「BOOK」データベース>より
【目次】
1 ジャポニカのイネは中国生まれ/2 黄河と長江ー中国二つの顔/3 イネの遺跡・遺物/4 水稲の誕生/5 中国の稲作風景/6 イネ、日本に至る/7 占城稲のゆくえ/8 現在水稲品種の系譜/9 米の日中比較

<読む前の大使寸評>
図書館に予約して5日後にゲットしたが、この種のやや専門的な本が狙い目かもね♪

<図書館予約:(3/19予約、3/24受取)>

rakutenイネが語る日本と中国


イネ

日本列島のイネについて、見てみましょう。
p128~136
<イネはいつ、どこから来たか>
 ではイネが日本列島に来たのは、確実な線でいうといつのことと言えるか。おそらく、大多数の研究者が首を立てに降る線は縄文時代中期(4500年ほど前)なのであろうと思われる。皇學館大学の外山秀一さんは日本列島各地の縄文時代の遺跡から出土したプラントオパールを初めとするイネの遺物が出た遺跡をピックアップしている。外山さんによると、縄文時代の後期中ごろまで(いまから約3000年前まで)の日本列島では、その西半分、つまり関ケ原から西ではイネが作られていたことが如実にみてとれる。

 しかし縄文時代の遺跡からは水田はでてきていない。厳密な言い方をすると、縄文時代晩期の後半以前には、日本列島には水田稲作はなかったらしい。では時代のイネをどう考えるのがよいのか。私は、縄文時代の稲作が、いまのような水田ではなく焼畑のようなところで行われていたと考えている。今でも全世界的に見れば、日本列島のような水田稲作を営んでいる地域は稲作地域のなかのごくわずかに過ぎない。

 イネは水田で作られるものという常識が通用するのは、いまの日本列島と朝鮮半島、それに中国の北半分くらいのものに過ぎない。縄文時代のこの時期に水田がなかったことは、水田稲作がなかったことの証拠ではあっても稲作がなかったことの証拠にはならない。
 焼畑というと、多くの日本人は山の斜面に開かれた畑を想像するだろう。だが、焼畑がすべて斜面に開かれるとは限らない。焼畑が斜面に開かれるのは斜面しか残されていないからであって、土地が十分にあれば平らなところが焼畑に開かれてもかまわない。焼畑のエッセンスは、また、「焼く」という行為にあるのではない。焼くという行為は土地を開く手段の一つなのであって、さらにひとつ重要なのが「休耕する」という行為である。休耕によって、もとの耕地では遷移が進んで森が回復する。回復した森は再び伐られ、耕地として息を吹き返す。

 焼畑のイネはどこから来たのか。これについてはまだ研究者の間で意見が分かれている。私はかつて、現在の日本列島や西南諸島に細々と残る在来品種がもつ遺伝子を調べたことがある。Hwc-2という、ペルー産のある品種との雑種を死に至らしめるという変わった遺伝子の場合、その頻度はフィリピンやインドネシアでは三割を超えるほど高率であるのに対し、西南諸島では十数パーセント、そして日本本土では数パーセントと減少した。
 
 Hwc-2と同じような分布スタイルを示す遺伝子はほかにもみられた。これらの遺伝子の「流れ」を見ていると、遠い過去に、この遺伝子を持った品種が南島伝いに日本にきたという仮説がでてくる。柳田国男の「海上の道」再来である。

<他にもある南方の要素>
 熱帯ジャポニカのイネはほかにも、南方起源を思わせるものがいくつもある。古代には高貴な色とされた紫色を染める貝は、南方由来の貝であったという。今も太平洋側の各地に残る鰹節の製法は、黒潮にのってはるかフィリピンあたりから日本列島にきた可能性が指摘されている。

 太平洋側の各地には、ナギという風変わりな樹木が分布する。ナギはマキ科の針葉樹ながら、広葉樹のような幅広の葉身をもつ樹木で、その葉や材にナギラクトンと呼ばれる殺菌・除草効果を持つ物質を多量に含んでいる。

 ナギの木は、高知県の太平洋沿岸から本州南端・和歌山県の潮岬、静岡県の沼津一帯と、おもに太平洋岸に分布が認められる。内陸では、変わったところでは瀬戸内海の大崎上島にもナギはあるし、また、奈良市の春日大社の原生林には自然植生が認められる。春日大社のナギ林はナギだけがはえるいわゆる純林になっている。

 このナギの木だが、実は中国南部、雲南省にもその植生が認められる。私が見た範囲では、雲南省の南西端にある西双版納自治区の南西方にある省亜熱帯植物研究所の構内に、二本のりっぱなナギの木が生えていた。雲南のナギと日本のナギとが同じ種に属するものか否かの検討はこれからだが、その可能性は高い。

 ナギと似た分布をするのが、同じ樹木の仲間のクスノキである。クスノキは日本列島では関東以南の沿岸沿いの地域に認められる。クスノキは古くから船材として使われてきた樹種で南方からの渡来が取りざたされる植物であるが、実際それは、セツ江省から台湾、江西省から雲南省、さらにはベトナムにかけて分布する樹種である。

<水稲はいつどのように伝わったか>
 さて、縄文時代に南方から伝わったイネは熱帯ジャポニカのイネであったと思われるが、今日本で栽培されているイネはそのほとんどが水稲、つまり温帯ジャポニカのイネである。彼らがいつどこで生まれたかははっきりしないが、私はそれは春秋戦国時代の大混乱期を境にその勢力を急速に伸ばしたのではないかと思っている。

 水稲は、従来朝鮮半島を経由して、あるいは中国から直接日本列島に渡ってきたと考えられてきた。ただし多くの研究者、とくに考古学者たちは水稲は朝鮮半島を経由して日本列島に渡ったと考えてきた。石毛直道氏は日本や朝鮮半島の遺跡からでた石包丁が収穫のための道具であるとの立場にたっての論考であり、これは今も多くの研究者に支持される説となっている。一方考古学の分野でも樋口隆康氏などはイネは中国から直接来たとの説をとられるし、また民族学者佐々木高明氏は鵜飼いの習慣のように日本と中国にはあって朝鮮半島にはない文化要素の存在を例に挙げ、朝鮮半島を経由せずに大陸から海を渡って直接渡来したものがあったと主張した。私も、水稲の一部が朝鮮半島を経由して来た可能性を排除しないが、一方で大陸から直接渡来したものもあったと考えたい。

 水稲の運びやたちは誰であったか。いままでは何となく、水稲は大陸や朝鮮半島から渡ってきた多量な移民によって運ばれてきたと考えられてきた。弥生時代に入るととくに西日本では考古遺跡などから水田のあとが多量にみつかり、この時期に水田稲作の爆発的流行をささえたものは何であったか。

 人類学者の埴原和郎さんは「日本人二重構造説」という説を発表し現代日本人が、はやくから列島にいたいわゆる縄文人と弥生時代ころに大陸から渡来した渡来人との混血によってできたと考えた。多量の水稲は、多量の渡来人にはこばれたと、多くの人びとが考えるようになった。


『イネが語る日本と中国』1
『イネが語る日本と中国』2

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