『村上春樹 雑文集』

<『村上春樹 雑文集』>
図書館に予約していた『村上春樹 雑文集』という本を待つこと4日でゲットしたのです。
なるほど、予約するには6年前発刊の本なんかが狙い目なのか♪


【『村上春樹 雑文集』】
村上

村上春樹著、新潮社、2011年刊

<「BOOK」データベース>より
1979-2010。未収録の作品、未発表の文章を村上春樹がセレクトした69篇。
【目次】
序文・解説など/あいさつ・メッセージなど/音楽について/『アンダーグラウンド』をめぐって/翻訳すること、翻訳されること/人物について/目にしたこと、心に思ったこと/質問とその回答/短いフィクションー『夜のくもざる』アウトテイク/小説を書くということ

<読む前の大使寸評>
なるほど、予約するには6年前発刊の本なんかが狙い目なのか♪

<図書館予約:(2/07予約、2/11受取)>

rakuten『村上春樹 雑文集』


小説を書くことの意味が興味深いので、そのあたりを見てみましょう。
p400~403
<物語の善きサイクル>
 小説家とは、もっとも基本的な定義によれば、物語を語る人間のことである。人類がまだ湿っぽい洞窟に住んで、堅い木の根を齧ったり、やせた野ネズミの肉を焙って食べていたりしていた太古の時代から、人々は飽きることなく物語を語り続けてきた。

 たき火のそばで身を寄せ合って、友好的とはお世辞にも言えない獣や、厳しい気候から身を護りながら、長く暗い夜を過ごすとき、物語の交換は彼らにとって欠かすことのできない娯楽であったはずだ。

 そして言うまでもないことだがあ、物語というものは、いったん語られるからには、上手に語られなくてはならない。愉快な物語はあくまで愉快に、怖い物語はあくまで怖く、荘重な物語はあくまで荘重に語られなくてはならない。それが原則である。

 物語は聞く人の背筋を凍らせたり、涙を流させたり、あるいは腹の皮をよじらせたりしなくてはならない。飢えや寒さをいっときであれ、忘れさせるものでなくてはならない。そのような肌に感じられる物理的な効用が、優れた物語にはどうしても必用とされる。

 なぜなら物語というものは聞き手の精神を、たとえ一時的にせよ、どこか別の場所に転移させなくてはならないからだ。おおげさに言うなら、「こちらの世界」と「あちらの世界」を隔てる壁を、聞き手に越えさせなくてはならない。あちら側にうまく送り込まなくてはならない。それが物語りに課せられた大きな役目のひとつだ。

 どのような集団の中にも一人くらい、物語をそのように生き生きと語ることに長けたものがいたはずだ。そしてその人物が多かれ少なかれ専門家として、部族固有の多くの物語を記憶の中にプールし、それを自分なりにうまく脚色し、リアルな語り口で、巧妙に語ることになった。おそらく世界の多くの地域で、言語の違いこそあれ、そのような光景が同時的に、同質的に見受けられたことだろう。

 このような物語を語る専門技術を(あるいは才能を)身につけた人々は、その部族が固有の文字を獲得したとき、物語を文章に固定する役割を担い始めた。長い年月にわたって口頭で、世代から世代へと伝えられてきた部族の神話や伝承やノウハウが、木片や石片に刻まれ、やがては紙片に書きつけられるようになった。そしてやがて情報の機能が分化し、フィクションという概念が確立されたとき(それは人類全体の歴史から見ればほんの昨日のことなのだが)、そのような作業を専門とする人々は「作家」という名前で呼ばれるようになった。

 そして栄誉の桂冠を与えられたり、やんごとないご婦人の寵愛を受けたり、無理解な民衆に石を投げられたり、ある場合には為政者の逆鱗に触れて気の毒にも首を切られたり、生きたまま穴に埋められたり、火で焼かれたりすることにもなった。

 僕は小説を書くことを職業とするもののひとりである。フィクッションを書き、それを本のかたちにして出版し、その印税で食料品を買ったり、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのCDを買ったり、電気料金を払ったりしている。その仕事をかれこれ25年も続けている。ありがたいことに今のところまだ、首は切られていない。ときどき背中に石を投げつけられるくらいのことはあるけれど、胴体と頭が離れることに比べれば、そんなものは些細なトラブルに過ぎない。

 作家はどちらかといえば孤独な職業である。一人きりで書斎にこもり、何時間も机の前に座り、意識を集中して文字の配列と格闘する。そのような作業が、来る日も来る日も続くことになる。集中して作品を書いていると、一日ほとんど誰とも話をしないということがけっこうある。社交的な性格の人にとっては、かなりつらい仕事ではないかと推察される。

 しかしそのような本質的な孤立性にもかかわらず、自分がそのような「たき火の前の語り手」の、一人の末裔であることを、僕はことあるごとに認識させられることになる。一人きりでコンピューターの画面を睨みながら、僕はときおり夜の漆黒の闇の深さを目にし、たき火のはぜる音を耳にすることになる。人々が僕のまわりを囲んで、僕の語る物語に耳を澄ませる気配を感じることになる。そして僕はそのような架空の気配に励まされながら、文章を書き続ける。

 そう、僕は語るべき物語を持ち、それを表現するための言葉を持ち、そしてある種の部族に属する人々は(なんとお礼を言えばいいのだろう)僕の語る言葉に熱心に耳を傾けてくれているのだ。僕は彼らに、「こちら側」と「あちら側」を隔てる壁を(多かれ少なかれ)越えさせることができるのだ。そのような「語ること」の喜びの質には、現代においても、1万年前においても、それほどの差異はないのではあるまいか?


ウーム 直球勝負というか生真面目な語りであるなあ・・・・これが村上さんの持ち味なんだろうけど。

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