『日本人の「住まい」はどこから来たか』2

<『日本人の「住まい」はどこから来たか』2>
図書館で『日本人の「住まい」はどこから来たか』という本を手にしたのです。
日本家屋の間取りが気になり、『「縁側」の思想』、『民家ウォッチング事典』と読んできたが…
その勢いでこの本にたどり着いたわけでおます。


【日本人の「住まい」はどこから来たか】
住まい

吉田桂二著、鳳山社、1986年刊

<「BOOK」データベース>より
歴史をちょっとひもとけば、日本人の衣食住は中国や朝鮮の影響ぬきには考えられないはずなのだが。では、おまえは日本以外の東アジアの家がどうなっているのか知っているのか、と自問して愕然とした。何も知らない。建築の専門家ずらをしてこんなありさまだ。―町並み保存運動に情熱を傾け日本各地の伝統的な民家を訪ね歩いた旅の建築家である著者は、日本人の住まいの源を求めて海を渡った。韓国、中国、タイ、マレーシア、インドネシア…。そして彼の地で触れた人々の生活と住まいに驚くべき類似性を発見する。日本の伝統とは何かを問う異色ドキュメント。

<読む前の大使寸評>
日本家屋の間取りが気になり、『「縁側」の思想』、『民家ウォッチング事典』と読んできたが…
その勢いでこの本にたどり着いたわけでおます。

amazon日本人の「住まい」はどこから来たか


日中における風流の思想を見てみましょう。
もっとも、今では本家の中国では廃れているようですが。

p163~167
<数寄屋は禅に由来するか>
 数寄屋は和風建築の粋といわれる。そのことに反対するいわれはないし、確かにその通りだと思うのだが、あまりに日本独自を強調されるとつい反発したくなる。先史の頃から江戸期に至るまで、日本にとって中国文化は常に師たる立場にあり続けたのだから、数寄屋といえども決して無縁にできてしまったわけでもなかろう、と思うからである。

 ここで数寄屋の何たるかについて述べておこう。数寄屋は丸太や竹を多用して、家のつくりように自然の味わいをとり入れ、様式にしばられない自由な造形をする種類の建築のことを指す。したがって、書院造りというような建築様式に対等する言葉ではなく、たとえば、数奇屋風書院造りというふうに使うのが正しい用法だ。

 数寄屋は千利休が創始した草庵風茶室に始まるといわれる。もちろん茶道はそれ以前からあったけれども、それまでの茶室は書院造りの堅い造形から大きく抜け出すものではなかった。しかし草庵風茶室は千利休ひとりの個人的創作のみに帰するべきではなく、すでに時代背景としてつくられつつあり、千利休はそうした中で、これを美の体系に完成させた天才としてとらえるべきだ、というようにもいわれる。

 数寄屋という言葉は当初は草庵風茶室のみを指す言葉であったが、数奇屋風の味が書院造りにもとり入れられるようになる。書院造りは武士階級支配層の御殿の建築様式で、金銀を散りばめて漆塗り、格天井、上段の間を最高位に設け、その背に押板と違い棚、左右に書院と帳台構えを設け、壁や襖に障壁画を描いて格式の高い絢爛豪華なもの、安土桃山時代を代表する建築様式だが、それが常では肩が凝るためか、日常的な居所に使う書院造りには、いち早く数奇屋風がとり入れられ、渋いものへと変化した。その代表例が桂離宮である。
桂離宮桂離宮

 数寄屋は作意を重んじる。作意という言葉は今では悪い意味に使われるが、本来の意味は文字の示すとおり、デザイン意図ということである。数寄屋の手法が広く用いられるに及んで、従来は様式にしばられつくられてきた建築が、個人的デザインの展開する場へと変化してきた。

 数寄屋の手法は一般の建築へも普及し、民家にも数奇屋風の座敷がつくられるようになる。数奇屋風デザインはさまざまな作意によって多彩な展開をみせ、ついには和風建築の主座を占めるに至ったわけである。

 しかし数寄屋が16世紀に誕生してその後大普及した事情には、それを可能にした下地が充分に用意されていたからだ、と見なくてはなるまい。数寄屋は日本的産物には違いないが、その下地となる風流の思想は中国原産だと見たい。

<中国江南の水気の多い文化は日本の伝統文化の母体であろう>
 中国の文化は色とりどりで、チンドン屋のように派手で賑やかなものだ、という見方は近世の中国にかたむき過ぎた見方だといえるだろう。古代から中世にかけての中国文化はもっと渋味のあるものだったようだ。

 おしなべてそうだというのではなく派手な文化もあったであろう。日本でも数寄屋の渋さと安土桃山風の派手さが同時に存在したことを考えれば、文化というものがひと筋縄でないことは確かだ。時代によって表層にあらわれる部分が異なるのである。

 渋い中国ということで江南に注目したい。揚子江下流域から南部にかけては、黄河流域の中原に漢民族の文明がおこった後においても、長く異民族の地であった。ここが中国文明に溶融されるのはおよそ6世紀、南北朝の頃からといわれる。しかしその後においても微妙な差が残された。

 文化の体質というのは、最も基礎的には、風土と生活によって築かれるのであろう。そうだとすれば、中原と江南とではおのずから文化的体質が違って当然といえる。対比すれば、乾燥して寒冷な土地と温暖多雨の土地という気候条件の違いから、麦作と水稲作の違いが生まれ、南船北馬という交通輸送の手段の違いも生じてくる。北が苛烈な気質を生むとすれば、南は駘蕩とした気質を生むであろう。これほどの差異があれば、長く異民族の地であったという経過も納得できることだ。
江南中国江南

 こうした文化体質なら、中国における覇者が殆ど常に北であったことも理解しやすい。政治的中心が南におかれた南北朝時代の南朝や宋の後期である南宋は一種の植民地政権といってもよく、北の圧迫を避けて豊暁な南の植民地の上に乗っかった支配者であった。そうした政権はもちろん北の文化を持ち込んだけれども、南の文化と同化せざるをえず、そのことが刺激剤となってこのとき、南中国的文化が高揚したと見ることができる。

 南北朝時代の南朝の文化は六朝文化と呼ばれる。これが朝鮮の百済におよび、さらに日本に至って飛鳥天平の文化を築いた。奈良時代は大陸文化直輸入の時期だが、それに続く平安時代は国風文化が育った時期といわれる。漢字を使った万葉仮名がひらがなに変わったことは、その象徴的事例であるけれども、平安時代に国風として育った風流の精神は、六朝文化が濃厚に持っていたし、百済もまたそうした体質の文化であった。

 風流とは離俗・耽美・自然の三要素から成るといわれる。日本に移植されて日本的なものへと育ってきた風流は、やがて南宋文化の影響をうけてさらに発展する。六朝にせよ南宋にせよ、その文化的体質は中原のものとは微妙に異なり、駘蕩として煙霧がたなびく中から生まれた水気の多い文化であろう。日本が地理的に江南に近く風土条件も似ていることで、日本への移植が日本の伝統文化の母体となったことは、当然といえば当然のことのように思える。


ウン 駘蕩とした江南や百済の文化を愛でた日本であるが・・・
どうしても華北の民とか新羅とは、そりがあわないようです。

『日本人の「住まい」はどこから来たか』1

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