『日本人のルーツ』

<『日本人のルーツ』>
図書館で『日本人のルーツ』というニュートン・ムックを、手にしたのです。
大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・
そのあたりの確証を得たいわけでおます。


【日本人のルーツ】
ニュートン

ムック、ニュートンプレス、2000年刊

<「MARC」データベース>より
日本人はいつ、どこからやってきたのか。血液型が示す日本人の足跡、遺跡・遺物が語る日本人のルーツ、モンゴロイドの大移動などから日本人の起源を探る。『Newton』誌上に発表してきた文章をまとめる。

<読む前の大使寸評>
大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・
そのあたりの確証を得たいわけでおます。

amazon日本人のルーツ


水稲耕作の跡、照葉樹林型が出てくるあたりを見てみましょう。
p54~58
<日本と中国の遺跡から日本人のルーツを探る>
 河姆渡遺跡は中国の浙江省寧波市郊外にある。1973年夏の土木工事中に発見され、同年秋から発掘調査がはじまった。炭化米がみつかり、炭素14法を使った年代決定によって、最古のものの年代が今から約7000年前であることがわかった。

 このころすでに稲作が行われていたことが明らかにされたのである。炭化米は長粒でパサパサしたインディカ種と、短粒で粘り気のあるジャポニカ種の両者を含んでいた。河姆渡遺跡ではまた赤漆塗椀、骨製植刃鎌、角製斧柄、木器類、鳥をきざんだ象牙製品、ブタと稲穂をえがいた黒皮胸、木魚などが出土しており、ブタの飼育も確かめられている。これらの出土品は杭州市博物館に展示されている。

■日本と中国の遺跡の共通点を探る
 河姆渡遺跡からの出土品に関係しているように思われるものが、日本には数多くある。鳥浜貝塚は福井県三方郡見方町にあり、三方湖へ注ぐハス川と高瀬川の合流点近くにある。それは縄文時代早期・前期を代表する遺跡である。

 鳥浜貝塚の女性たちはおしゃれであり、さまざまなアクセサリーを使っていた。動物の骨で作ったかざりを細い糸でつなぎ、それをペンダントとして使った。貝で作った腕輪も使われた。前期に入ってからは、前面に漆を塗った真紅のくしが使われた。漆はまた盆や土器の表面にも塗られた。同じ前期に属する三内丸山遺跡からも漆塗り製品が見つかっており、このころにはそれがかなり流行していたらしい。
(中略)

 唐津市西南の菜畑遺跡および福岡市東南の板付遺跡では、紀元前350年ごろの水稲耕作の跡が見つかっている。これらはいずれも波風荒い玄界灘沿岸にある。こうして日本へ上陸した水稲耕作は、その後日本海沿岸沿いにかなりのスピードで北上した。津軽平野の南東部にある垂柳遺跡では、600枚をこす紀元前後の水田跡が見つかっている。

■中国の歴史と日本人のルーツ
 次に、この間の中国本土でどういうことがおきたか見てみよう。中国で栄えた最初の文化は仰韶文化であり、紀元前4500年ごろから約2000年間つづいた。彩色土器で知られており、その代表的な遺跡は黄河中流域の仰韶(河南省)である。これに次いで数百年間栄えたのが竜山文化である。黒陶でもって知られており、その代表的な遺跡は仰韶よりも下流の竜山(山東省)である。

 仰韶期の遺跡からは、甕型の土器の破片にくっついた水稲のもみがらの跡が見つかっており、このころにこのあたりで水稲耕作がなされたことを物語っている。大量のブタとイヌの骨が見つかっており、定住生活に適したブタを主な家畜としていたことがわかる。
 竜山期の人たちも仰韶期の人たちと同じ縦穴式住居に住んでいた。しかしそれは平地式に近いものであり、湿気を防ぐための工夫もされていた。

 中国本土に最初にあらわれた王朝は、前1600年ごろから約500年間つづいた殷王朝である。その代表的な遺跡は安陽(河南省)の近くにある殷墟である。彼らは甲骨文字や青銅器を使っていた。甲骨文字は占いなどに使われた。これは北方的な風俗であった。これにつづいて、前1050年ごろから前256年へかけて栄えたのが周王朝である。周が都を西安の西にあるガオキンから洛邑ヘ移したのは前771年であり、春秋・戦国時代はこのころに始まっている。
(後略)

■植生の変化が人々の移住を促進した?
 河姆渡文化や仰韶文化のころの華北の地にはまだ、われわれが「漢族」と呼んだときに連想する人たちはあらわれていない。この期間中に含まれる、今から約6000~5000年前は「高温期」あるいは「気候最適期」と呼ばれる気温の高い時代であった。そのころの気温および海水面は、現在よりもそれぞれ1~2度および5~10メートル高かったとされている。

 気温が高いと、植生や人々が北上する傾向がある。クス、シイ、カシなどに代表される照葉樹林帯は、現在の中国本土では、長江よりも南の華南の地にある。しかし高温期のころの照葉樹林帯は、華北の地にまでのびていたという人がいる。もしそうだとすると、河姆渡遺跡に代表されるそのころの南方系の人たちが、照葉樹林帯とともに北上し、華北の地いっぱいに広がっていたということも考えられる。仰韶遺跡から見つかった水稲のもみがらの跡や、殷墟で見つかった漆製品、訣、動物の骨などがそれを裏書きしているように思われる。

 今から6000~5000年前の高温期は、日本の縄文時代前期に相当する。不思議なことに、まさにこのころから、「江南型」あるいは「照葉樹林型」と呼んでよいような南方系の文化要素が、日本、とくに西日本への進出を始めている。

 鳥浜遺跡の漆塗りのくし、訣状耳飾り、さらには弥生時代へ入ってからの水稲耕作や高床式の建物がその例である。魏志倭人伝に出てくる倭国の風俗が、「タンジ・朱崖(海南島の地名)」南方系なのには、倭人伝の選者もびっくりしているほどである。

 西日本、東日本および北海道の植生がそれぞれ照葉樹林、落葉広葉樹林および亜寒帯針葉樹林となったのは縄文時代前期であり、海洋性気候のおかげで、これらと似た植生が現在もなおつづいている。今から約1万年前に終わったヴェルム氷河期の影響で気温が低かったために、前期より前の縄文時代早期の西日本、北海道および東日本の植生はそれぞれ落葉広葉樹林、亜寒帯針葉樹林、および針広混合林であった。縄文時代前期におきた、照葉樹林帯へ向けての西日本の植生の変化が、当時華北の地にいた江南型の人たちの西日本進出にはずみをつけたのではなかろうか。

■南方系の人々はどこからやってきた?
 当時華北の地にいた江南型の人たちは北路をたどって北九州へやってきたにちがいない。これはほとんど陸づたいといってよい安全な道であり、魏志倭人伝に出てくる道もこの道である。江南と西日本とをつなぐ道としては、これ以外に南路や南海路がある。これらはいずれも、新羅がじゃまをしたために北路をたどれなくなった遣唐使たちが、ある時代以後にたどった江南への道である。

 しかしそれらは航海困難な道であり、775年に遣唐大使に選ばれた佐伯今毛人が病を理由として大使を辞退し、894年にこれまた大使に選ばれた菅原道真の進言によって、遣唐使が廃止された真の理由もここにあったといわれる。753年末に現在の坊津町(鹿児島県)へたどり着いた鑑真和上も、12年、6度にわたる苦難の航海をしている。魏志倭人伝の中にも、中国への往復航海の安全を祈る持衰の話が出てくる。

 今から6000年も前の、縄文時代前期のころの人たちにとって、航海の困難さはさらに大きかったはずである。中尾佐助や佐々木高明の「照葉樹林文化論」に共鳴を感じながらも、私(竹内均)がそれに心からの賛意を表せなかった理由がここにある。そういう意味で私は、私がここでのべた考えがポイントをついた正しい考えであることを、心から願っている


ネットで板付遺跡を検索したら、このブログに巡りあたりました。

板付遺跡弥生館より
板付

 今から約2,400年前、稲作や金属器など新しい技術や風習を持った人たちが海を渡ってきました。板付では、台地の東西の低地を水田に変え米作りが始まりました。

 中央の台地には、幅約6m、深さ3mの溝が経108mの卵形にめぐり(内環濠)、この内側に食糧を保存した貯蔵穴や竪穴住居があります。そして台地にそって用水路を掘り(外環濠)、その中には横木と木坑を組み合わせて井堰を設け、水田に送る水量を調整しました。水田は畦で長方形に区画されています。

 鍬、鋤、えぶりなどの農耕具は、ほとんどが堅いカシの木で作られていますが、その形は現代と変わりません。
実った稲穂は、石庖丁という石器で1本ずつ摘み取り、臼と籾がらを取り除いていました。 このようにムラ人たちは、いろんな種類の道具を使い、高度な技術で稲作をしていたことがわかります。

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