『縄文農耕の世界』2

<『縄文農耕の世界』2>
図書館で『縄文農耕の世界』という新書を手にしたのです。
おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪
照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)


【縄文農耕の世界】
縄文

佐藤洋一郎著、PHP研究所、2000年刊

<「BOOK」データベース>より
 農耕文化は従来弥生時代の水田稲作の渡来が起源とされてきた。だが三内丸山をはじめ縄文遺跡で発掘されるクリは栽培されたものではないか?縄文人は農耕を行っていたのではないか?
 著者によれば、「ヒトの手が加えられるにつれ植物のDNAのパターンは揃ってくる」という。その特性を生かしたDNA分析によって、不可能とされていた栽培実在の証明に挑む。
 本書では、定説を実証的に覆した上で、農耕のプロセスからそれがヒトと自然に与えた影響にまで言及する。生物学から問う新・縄文農耕論。

<読む前の大使寸評>
おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪
照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)

なお、著者は『ジャポニカ長江起源説』を著わしたイネ考古学の権威とか。

rakuten縄文農耕の世界


やしの実
「海上の道」の痕跡として確たるものは無いようです。でも、それだけにロマンが漂うわけでおます。

<「海上の道」の痕跡をどう証明するか>p124~126
 列島に分布する要素のなかでもうひとつ気になるのが南の要素である。これはかつて柳田国男さんが「海上の道」と説いた、あのルートでもある。このルートは、「やしの実」の歌にもうたわられたロマンの香り高い説ととられ、学問的な裏付けはむしろ弱いものと考えられてきた。その最大の理由は、南西諸島などの考古学的な研究が、古い時代の文化の存在に否定的なためである。

 たしかに、現時点での考古学的証拠からは、南西諸島に、日本本土の縄文時代に相当する古い文化要素はまだ認められていないようである。しかしいくつかの理由から、私は考古学的証拠の欠落は「海上の道」を否定する理由とはなり難いと考えている。

 ひとつは舟の存在。黒潮の街道は船乗りたちのルートでもあった。大海原を縦横無尽に駆け巡っていた彼らにとって、南西諸島の存在は・・・あれば便利であったには違いないだろうが・・・なければ日本列島に達することができなかったわけでもなかったはずである。

 もうひとつは「海上の道」の痕跡をどう証明するかである。たとえば稲作があったとして、もし水田のような構造を期待して発掘を進めるなら何も出てこないであろう。今まで稲作の証明は水田の検出によっていたが、南西諸島に縄文稲作に対応する稲作があったとして、それが水田を伴った可能性はきわめて小さい。こうしたことを考えると、南西諸島における考古学的証拠が乏しいことを理由に「黒潮の街道」を否定することはできないというべきであろう。

 「海上の道」を経由したであろう植物要素として真っ先に挙げるべきは、今も書いたようにやはりイネ、それも陸稲であるが、これについては別に改めて詳しく書くことにしたい。他に私が気になっている植物は、クスノキ、ウバメガシ、ナギ、などの樹木である。

 これらの自然植生を見ると、いずれも太平洋沿岸または瀬戸内海沿岸、それも南西斜面のように局地的に暖かい場所に限定された分布を示している。もっともナギは、その純林が奈良・春日山原生林に見られるなど、他の二種とはやや異なった分布のパターンを示す。


著者は、高知の酒盗を題材にして、「海上の道」のロマンを語っています。

<漁労の文化と日本列島>p131~133
 またもや個人的な経歴で恐縮だが、私は高知県で若い頃の2年を過ごしたことがある。南国土佐は太平洋の大海原に胸元を開き、人も自然も、実におおらかでダイナミックであった。

 土佐には、男も女も酒豪でならす人が多かった。多少飲めますなどと言おうものなら大変な目にあう。なにしろ少々は升升、つまり二升酒を意味するのだ、と先輩から聞かされたときには、なぜその話を最初に聞かせてくれなかったかと言いたくなるほど人びとは豪胆に飲むのである。

 高知の酒を支える食が魚。新鮮なものから保存食まで、実に様々な食が、それも飲むために用意されている。そんな感じであった。毎年初夏に出るどろめとは、静岡などで地域特産として出される生しらすそのものである。かつおのたたきには様々なバリエーションがある。そのはらわたを塩漬けにした塩辛。その名もなんと酒盗。

 あるとき私は、貰いものの酒盗が賞味期間切れになったのを捨てがたく、火にかけて食べようとした。ところがそれは私の意に反して縮まった肉片とスープとに分離し原形をとどめなくなってしまった。諦めて捨てようかと思ったが、その前にと私はそのスープのほうをなめてみた。するとそれはなんと、東南アジア各地に広がる魚醤とよく似た味がするではないか。

 東南アジアには、タイのナンプラー、ベトナムのニョクマムはじめいろいろな魚醤の存在が知られる。それらは発酵させた魚のタンパクのエキスという共通項をもつが、タイのナンプラーもカンボディアのトンレサップ湖の人びとが作るそれも、淡水性の魚を利用したものである。それが、かつおという海の魚から作られる酒盗と共通項をもち得るとは夢にも思っていなかった。

 実は魚醤と酒盗とが、厳密な意味で共通の要素をもつかどうか、確かめたわけではない。しかし鮮魚を塩漬けにして保存するという調理の方法は基本的には同じであって、あとは保存にかかわる微生物にどれほどの共通性があるかが問題になるだけである。

 かつおにはまた鰹節という独特の保存食が知られるが、これは日本列島の中だけでも鹿児島県枕崎、高知、和歌山県印南、静岡県伊豆に生産地がある。また、フィリピンなどにも類似の発酵食品があるとされる。

 このように見てくると、かつおという生の食材の保存に関して、魚醤、鰹節というまったく異なるように見える食品の文化のなかに、東南アジアから南島を通じて日本列島の太平洋岸に至る一本のルートが描けるように私には思われる。このルートの存在に関しては、繰り返し書くように、さらに厳密な検討の作業が必用である。私は、このルートが過去に大海原の上に展開していた街道のひとつであったとの夢をあたため続けてみたいと思っている。


著者は縄文街道のロマンをさらに膨らましています♪

<日本列島を巡る複数の縄文街道>p133~134
 こうしてみると縄文時代の日本列島の周辺には何本かの街道・・・海を巡るから海道と呼んだほうがいいかもしれない・・・があったように思われる。それらが具体的に「道」の形態をとっていたかどうかはともかく、数千年の長きにわたって、多くの人とものが運ばれ続けたに違いない。

 複数の街道の存在は、縄文文化といわれる文化や同時代の農耕のスタイルが
地域や時期によって異なったであろうことを示唆する。縄文文化の研究者によっては、縄文文化の要素のなかに北の文化の要素を見たり、南の文化の要素を見たりする。こうした不一致はときには論争の種になったりもするようだが、私にはそのどちらもが正しいように思われる。縄文文化や縄文農耕は複数の顔をもっていたのである。

 縄文時代の街道は日本列島の中にも何本も通っていたことだろう。街道と街道の交わるところには多くの人やものが集まり、さぞや活況を呈していたことだろう。

 縄文文化といえば私たちは北に偏って分布するように考えてしまうが、街道の存在を仮定すれば、西日本にもまた、いくつもの交易の拠点があったに違いない。さしずめ瀬戸内海などは黒潮の海道とも日本海の海道とも指呼の位置にあるばかりか、大陸からの距離も遠くない。埋もれた縄文の交易センターが将来出てくる可能性はきわめて高いと思っている。


『縄文農耕の世界』1

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